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疲れて帰ってきても、なるべく一本だけでも、稽古するようにしている。
ことに復元・復興中の林崎新夢想流居合の形は多くて、すべてを習得しきれていない。
やがていつかは…などと悠長にやっていれば永遠にやらないだろうから。
今日は右身「臥足」だった。昔の人は足で蹴ることを、臥せると表現したようだ。
いままでの趺踞(ふきょ)で、私の勘違いがあった。
その姿勢では、近世伝書の人体図のように、下半身が細くまとまって、垂直方向への意識が強かったが、
刀の柄と右膝の関係、右かかとと左臑の関係を改善したら、趺踞における全身の感覚も変わった。
いままであまり感じられなかった水平方向への広がりが意識されてきた。
その分、両脚部が床から浮き、全身がラクになる。
そのうえで「臥足」をおさらいしてみる。するとラクになる気配が。
右へ展開しながら抜刀する際、刀の柄が右隣りに密着して座る打太刀にひっかってしまう、
という課題が解決しそうだ。
さらに抜刀しながら、折りたたんでいる左右の脚部を入れ替えるというアクロバットだが、
垂直方向だけではなく、水平方向、さらに右斜め下への落下と左上への浮上が連動する。(筆舌に尽くしがたい)。
この形は、即物的には、右下方を切り払ってくる相手への対応を学べるが。これはなかなか一対一の竹刀地稽古では学ぶどころか、そんな状況があること自体、気づきにくい技法といえよう。
私の身体を包む空間への認識は、上下左右の単純なものでしかないようだが、現実の空間には、さらに無数の斜めが存在している。
ともかく林崎新夢想流居合の稽古で共通することは、
鞘を払って1.5から2.0kg強の重さがある、長大な三尺三寸刀と身体をひとつにつなぎ、
刀をガンガン振り回すのではなく、なるべく刀を振り回さずに遣うということではないか。
一見、見栄えのしない動きになるから、表演では全く評価されないだろうが、
刀が今まで知らなかった多くの動きへと導いてくれるようになる。
先師たちが書き残した伝書や文献、メモ等を読んで、カタチをなぞるだけでは、全く武技とはならない。
ましてや「伝統」を遵守するがあまりに、形を盲目的になぞるだけでは、逆に「伝統」を枯らしてしまう。
私の場合、いったんカタチを覚えたら、それを盲信するのではなく、徹底的に見つめ直す。
己の心身を通じて、徹底的にその土台を壊してしまうほど模索するなかから、感得していくことがなければ、とうてい活きた技法とはなりえない。
ときにそのなかで、近世の伝書の難解な表現が、ようやく氷解してくることもある。