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剣道部稽古から帰ってきた息子が「木刀による剣道基本技稽古法」DVDを見ている。
この形は、平成になって「竹刀は日本刀であるという観念を理解させ、日本刀に関する知識を養う」ために制定されたという。
しかし、あくまで私見だが、あの形の構造は、中近世の武士達が編んだ形とは、全く異質である。
おそらくあの形の制定には、真剣使用よりも、防具着用による竹刀稽古の感覚が強く影響している。
すなわち相手の太刀筋を斬りふせぐことがほとんどなく、竹刀稽古同様、ひさすら接触の速さを競う遣い方が多いように見受けられた。
だから、あのまま実際に素面素小手で、日本刀や木刀を遣えば、凄惨な相打ちとなる。
生身の人間では耐えられないだろう。なんだか恐ろしい思いがして、見ていられなかった。
実は私は剣道部時代、日本剣道形が大好きだったが、家伝剣術の稽古を進んできたいまは、それに対しても、同じような感覚がしてならなくなった。
よって参考として、息子に袋竹刀を持たせて向きあい、剣道と剣術の技法の違いを、具体的な技法で教えた。
これはもしかしたら案外、高段者でもよくわからなくなっていることである。
翌日の修武堂定例稽古でも同じことをご紹介した。
剣道場「北辰堂」に集まった、修武堂のお仲間たちと、弘前大学古武術研究会の有志。
神棚に向かって座礼をし、家伝剣術や林崎新夢想流居合の素振りを数種類やって、太刀筋を覚えてカラダを温めた後、昨夜、息子とやったことと同じ稽古を。
互いに皮手袋や小手を付け、特性の袋竹刀「源悟刀」を構える。
そしてひとつの組太刀を素材として、いろいろな遣い方で打ち合ってみる。
最初は、竹刀剣道およびスポーツチャンバラのような現代の一般的なやり方。
次に、我が家伝剣術等の新当流系統の遣い方。そして新陰流系統の遣い方。
をそれぞれ実際に体験していただく。
いずれも構え、間合いを詰め、打つべき機会をとらえ、中心をとって切り結ぶのは同じだ。
はじめのやり方は、相打ちとなっても大丈夫だから、とにかく接触の速さを競う方法。
後者の古い剣技は、素面素小手で木刀や真剣使用のため、我が身を全くかすらせもせずに、相手の太刀筋を完全に封じると同時に、攻撃しなければならない遣い方である。
それぞれの目的に応じた特性を解説した。
なぜ木刀を使うのか。なぜ古流があるのか、竹刀稽古の特性は何か、などという問いに対し、
私自身がずっと悩んで模索してきたことへ、自分なりの現在の回答を紹介した。
ここ数週間は、なぜか心身ともに優れず低迷していた。なにをやっても満たされなかったが、
何度もみなさんと稽古し、打ち込み、打ち込んでもらい、斬り結んで、なぜか心も体もホッと安心した。
おそらく、このような稽古は、青森県内ではほとんど忘れられてしまい、誰も気づけなくなって、全く違うことを「刀法だ」「古流だ」と勘違いされている方もおられるようだから、ここで若い人たちに紹介できたことにも安心した。
こんなことに喜んでいるような私の生き方は、明らかに時代錯誤、現代社会の価値観からかなりズレており、どこにも登録先がないようだが、まあ、いいではないか。
「肯心自ら許す」。
やはり私は、己自身が納得し、深く安心するために稽古していることに、改めて気づいた。
そのために生まれ、この場を与えられたのだろう。
まずは今日、己がやるべきことをやれたから、よかった。ぐっすり眠れそうだ。