幼い頃から、祖父や父、各古流の先師達のそばで見聞きしたり、教えてもらったたくさんの武術談義や伝説、伝承がある。

そのときはなんとも思わなかったが、年齢を経てくると、いろんなことに気づかされる。またそれらは一般の方だけではなく、現代武道修行者にとっても、珍しい逸話も含まれているだろう。

このままでは私だけの死蔵となってしまうから、その一部だけでも、来週11月7日夕方の弘前大学講義で紹介してみようかと思い、急に整理しはじめた。

淡々としたそれらのエピソードは、中近世の各古流が、激動の近代をいかに経てきたのかというオーラル・ヒストリーだ。

彼らは、誰に知られることも認められることもなく、他からの支援も期待することなく、個々の志だけで残してきた。

ひとり歩いてきたその足跡を思うと、改めて胸に迫るものがある。

特にある師範からお聞きした、本覚克己流和大津育亮宗家の先代、故宮本源五郎貞利宗家の言葉が印象深い。

その師範はときおり、風呂で宮本師範の背中を流したそうだが、幼い頃から本格的な修行を積まれていた宮本師範の足裏が、ぶ厚く固くなっていること息をのんだという。

あるとき宮本師範は、自らの流儀について「もう私の代で終わってしまうのではないか」と嘆かれたそうな。

沈みかけていく船の上、ほかを選択することができない最終責任者の思いだろう。

同じことは各流の師範も考えていたようだ。

いま、我々はその未来に立っている。

「先生方、大丈夫です。どうぞおまかせください。」

かなり役不足で有効な手段も全くないが、ほかに誰も手を上げないから、天を仰ぎ、勝手にそう自任した。