稽古していたら、改めて感じる。

やはり刀剣は、単なる視覚だけでとらえる鑑賞の器ではない。

それだけだったら、あのようなカタチをしている必然性はないだろう。

刀剣本来の機能美は、動きのなかでこそ、明確に立ち上がってくる。

刀剣は、無制限で混沌とした場で、

そこに流れている見えないことわりを感知し、いかに振る舞うのが最適か

体認するための有効な補助線、規矩となるのではないか。

その稽古のなかで「為すべきときに、為すべき場にいて、為すべきことをする」ことができるようになっていくのではないか。

我が家は貴族ではなく、武士だったから、そのような器として刀剣を扱ってきた。

家伝剣術の開祖がなぜ「卜傳」と名乗ったのか、暗愚な私には知りようもないが、

「卜」の字には「占う」「神仏の意思を聞く」という意味とともに

「その場を占有する」という意味もある。

すなわち武でいう「位をとること」に通じる。

とすれば、これは誠に興味深い。

人智を越えた理を感知し、その場を治めて位を得ること、その技を伝える。

と勝手に訳してみると、拙い我が稽古が、大きく広がる。