三尺三寸の長剣を抜く林崎甚助の居合。

その流れを汲む方々が集った「全国古流武術フォーラム2016 in 山形」

そのレポート『月刊 秘伝』2017年1月号(http://webhiden.jp/)が発売された。

各方面で大活躍中の「日本武道文化研究所」が主催。

誠に画期的な試みだった。

「伝統」から、たくさんの新しい発見が生まれた。

当会でも、弘前藩の林崎新夢想流居合で出場した。

その稽古法は、居合の起源を表しているといわれる。

具体的にはこうだ。

互いに密着して座る相手が、九寸五分の短刀で突いてくる。

ほとんど身動きできない状況で、我は相手の突きを、三尺三寸の大刀で斬りとめるのだ。

「もっと遠い間合いから抜きつけるのが居合ではないか」という感想が多い。

確かにそのような稽古もある。

ならば、この奇妙な稽古は、いったい何を教えているのか。

一般に古流では、内に込められた命題をとらえて稽古しなくては、全く似て非なる存在となり、有効な武技とはならない。

林崎甚助の居合は何を目指しているのだろうか。

例えば、広い空間では、誰でも思いのまま、自由な軌跡を描ける。美しい表演ができる。

しかし武とは、そのような場ではなく、抜き差しならない場でうまれた存在だ。

敵との間合いが詰まるほど、己の自由は失われて居着き、絶体絶命となっていく。

そのような最悪の場で、いかに心身の自在を獲得するのか。

そのことこそ、林崎甚助が、居合にこめた大命題だったのではないか。

それはおそらく林崎だけの専売特許ではなく、我が家伝の卜傳流剣術にも、そして各武芸諸流にも共通することだったはずだ。

以上、この居合が目指すのは、いかに巧みに長い刀を操れるか、ということではなく、

危機で居着かずに、いかに己を解き放ち、活路を見出していくのか、ということである。

父祖達は、弘前藩士として代々この師範を務めたが、私は全く異なる現代に生きている。

しかし、林崎甚助が提示した境地にほど遠く、毎日居着いている私だからこそ、現代でも大いに学ぶ意義がを感じている。

そのことを2月半ばの東京稽古会でご紹介したい。

(追記)

稽古仲間との共同運営で、修武堂の公式Twitter始めました。

ほとんどわからない私は少しずつ勉強中。よろしくおねがいします。