古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

修武堂は、まるで武術の「アベンジャーズ」か。

バラバラの個性が、同化してしまうことなく、独立しながら、ゆるやかに連携している。

ふつうの武術・武道の会ならば、みんな同じ服装で同じ技だけをひたすら稽古するものだ。

だが我々は、武種も、職業も、好みも、目指すところも…、みんな違う。

会則や会費も無い。私は稽古場所を確保するだけ。

それだけなのになぜか、異なる武種、異なる武具、異なる服装が集まり、勝手に交流稽古している。

まるで、群雄割拠のマーベル映画「アベンジャーズ」だ。

なお、武種や流派を、勝手に乗り越え、研究してしまうルーズさは地方だからこそ。

会派同士のしきたりが厳しい首都圏では、絶対に許されないだろう。

確かに、あまりの無軌道さにあきれて、来なくなった方も少なくない。

「あなた方は正しい答えを知らない」というお叱りや「いったい、あんたら何者?」という問い合わせも。

どこに向かって行くのか、どうなるのか、全くわからないまま、ひたすら研究稽古を十数年やってきた。

だが、よそでは実験できないことがある。ここでしか気づけなかった理合がたくさんある。

あえて「伝統」から脱線することで、新しい世界が、「伝統」の底力が見えてくる。

先日の林崎新夢想流居合の稽古でもまた、面白い変化が生まれている。

スキー指導者の資格を持つ下田雄次氏によるアドバイスで、

現代スキーの体幹および腰の使い方と、同流居合との共通性が浮かび上がってきたのだ。

スキーは、ツルツル滑って、全く地を踏みしめることも蹴ることもできない氷雪上を、

高速で滑落しながら、重心操作だけで、いかに身をさばいていけるのか、という過酷な世界だ。

最先端のスキー技法かと思ったが、実は、津軽地方の民俗芸能、獅子踊りの身体操法とも重なるという。

しかも、S氏が稽古されている、東南アジア武術シラットの「ハリマオ」という動きにも重なるらしい。

これらのいわゆる「前近代の東アジア共通の身体操法」をヒントに、

日本の古い武術、林崎新夢想流居合のなかでも最も難解な「臥足(ふせあし)」を見つめ直した。

この形が要求する脚部の動きは、現代の我々からすれば、あまりに難解で全く「不可能」である。

だが、直心影流の教え「后来習態の容形を除き、本来清明の恒体に復する」の如く、

現代生活ですり込まれた身体の先入観が溶解、肩甲骨と腰が連動するようになり、脚部の力みが消え、

いままで不自然きわまりなかった形の所作が、自ずとそうなる自然な所作に、一気に転換していく。

この遣い方は、亡き加川康之氏も発見されていたことだったという。

それ以来、日常生活もそのようにして暮らしてみている。

非常にラクに動けるし、可能性が広がりつつあるような。

この動きに、いかに刀の構造的特性も乗せていくか…。工夫は無限に広がろう。

剣道部時代、あれほど稽古が嫌いで逃げていた私が、稽古そのものが楽しくてならない。

おそらく、決まりきったことを無理矢理やらされるばかりの稽古と、

自ら未知を切り拓いていく稽古は、全く違うのだ。

後者こそ、現実の世界に向き合うチカラを獲得するために、

前近代の武士達がやっていた活きた稽古だったのではないか。

「何を目指しているのか」「どれだけ社会的評価を受けるか」という、全くアテにならないことに煩わされるよりも、己自身の可能性が広がっていくことこそ、確かな喜びだ。

このように、自由放任主義のユルすぎる当会だが、ひとりひとりが己自身で切り拓いていかねば何も生まれない場であるため、

「正解」がないことに耐えられない人や、毎回誰かに命令されなければ何もできない人にとっては、何をしていいか不安で耐えがたい、厳しい場となっていることもあろうか。

広告を非表示にする