古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

武も、剣も、安全な現代社会では「無用の長物」と思う方もおられよう。

しかし私は、この現代生活だからこそ、ますます重要性を増している、と感じている。

生命力を豊かに、濃くするためにも。

そのひとつが、人と人との関係の持ち方だ。

我々は、互いの間合いの取り方が、非常に稚拙になっている気がしてならない。

人間の関係は、言葉だけではない。

無言のうちに、大量の身体情報を交換している。

だから、互いにどのような角度で相手に向き合い、どのようにその空間を占めるか。

いわゆるパーソナルスペース、ポジショニング、位取りによって、

相互の感情や人間関係のありようが自ずと定まってくるものだが、

これについても、かなり鈍感になっている。

相手をモノ化してしまっているのだ。

だからか、余裕のある空間なのに、己自身の都合だけを優先して、

全く見ず知らずの他人の間合いを侵犯し、真っ向からギリギリにすれ違っても、その真正面に立っても、全く平気だ。

無用に、相手に不快感を与え、かつ強盗に襲われやすいふるまいをしていても感じていない。

このように、生き物としての相手の心身の状態を考慮せず、自らの目的優先で対応するような意識は、競技スポーツやゲームの感覚に近いかもしれない。

ルールに抵触しなければ、相手と接触さえしなければ、どのような動きをしてもいいと。

そのことによる、他人の感情の起伏など関係ない、ゲームのなかのことだから…。

しかしそれは、現実の世界を暮らしていく、人同士の関係とはいえないだろう。

何度もいう。人は、言葉をかわす前から、相手の生身の存在を感知した瞬間から、相互の心身が影響しあってしまう存在だ。

そこから様々なご縁と現象が紡がれていく。

次々と発生し変化していく場で、いかに適切な対応ができるのか、ということが、我々には求められている。

だからご縁とは、豊かで不思議なものなのではないか。

それらを洗練したのが礼法や茶の湯であり、武術、武道であろう。

武の稽古では、そのようなことを直接、稽古できる。

そのとき規矩となるのが、我が心身と刀などの武具だ。

安易に相手に近寄ることが、いかに無謀で危ういことか、痛みで実感できよう。

だから、侵されない間合い、位をとりながらも、相手との関係を深く結んでいくことを学ぶ。

私は幼い頃から、剣術や剣道で、遠間からいかに入っていくか、という稽古ばかりやった。

しかし、林崎新夢想流居合のように、最初から間合いが詰まってしまい、全く抜き差しならない最悪の状況で、いかに活路を見いだすか、という稽古をやるようになってから、

遠間だけではない、多様な間合いや位取りがあること、その豊かな世界を楽しんでいる。

すると通勤の駅構内での雑踏、電車のなかで、人々とすれ違うたびに、己の心身がさざ波のように変化することを感じ、いろんなことを考えさせられ、いい武の稽古になっている。

ともかく、己の心身をいかに保ち、生身の他人といかに向き合うのか。

それは、我々が機械やバーチャルではなく、実際の生き物である限り、永遠のテーマだ。

武は、剣は、そのことを学ぶ最適の文化だ。

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