家伝卜傳流剣術「変形(へんぎょう)」はまことに不思議だ。

その名のとおり、まさに変形、異形の技だ。なかでも三本目は全く不明だった。

しかし昨夜、いつものように居間で、袋竹刀を振っていたら、次々面白いことが見えてきた。

試しに、剣道部帰りの愚息相手に攻守交替しながらやると、さらに意外なものがみえてきた。

それには、もちろん代々併伝していた林崎新夢想流居合の研究稽古の効果もある。

そして、ちょうど直前の生活体験も生きている。

帰宅時、真っ暗な歩道が、延々とツルツルのアイスバーンで、しかも真横へ傾いている。

隣りを次々クルマが走っていく。逃げ道がない。

前へ歩こうとしても、すぐに足元がすくわれ、全身ごと横へ滑落、転倒しそうになる。

滑りやすい安ブーツで、我ながらよく歩いていると、感心するほどの悪路だった。

アッと滑って瞬間的に、古代の舞いのような姿勢になったりした。

大通りで恥ずかしかったが、それが参考となった。

さて「変形」三本目。

我は剣を上段に構え、さらに異様な前傾姿勢となる。

左前腕や頭部を前へぐっと突きだしたまま、相手へ間合いを詰めていく。

まるで頭上を斬り割ってくれ、といわんばかりに。

やはり相手は打ち込んでくる。

すると我は、その太刀筋の反対側へと躱わせばいいのだが、そうはしないのだ。

筆舌に尽くしがたいのだが、つまりはその相手の太刀筋上ですり抜け、さらに斬り返すのだ。

私のような愚才が、己の得意技だけで競い合ってしまう自由攻防だけでは、一生気づかないだろう、コロンブスの卵のような遣い方だ。

剣道で刷り込んだ、前後の攻防のみでこれを遣えば、相打ちになり、成立しない形だ。

相手に正対し、捨てきって飛び込み、どちらが先に打突したかという技法は、剣道で無数に稽古させられた。

修行方法としては素晴らしく、学んだことが多い。

だが、その稽古が本来目指していた、真剣を遣い、防具無しの素面素小手で対峙する場合、

そのような真っ向衝突のみでは、人間の生身は全く耐えられない。互いにそれが最後となる。

そのことを、往事の武士達は、嫌というほど経験していたのだろう。

だからこそ、古流のような、様々な位取りや体さばきが必要不可欠になる。

よってこの「変形」でも、左右・上下も加えた、三次元的な体さばきを学ぶのだろう。

それはそのまま、一対一だけではなく、多人数相手の遣い方にも直結していく。

そのような、複雑な軌道を描く運動の動力源は、地面を蹴るだけでは間に合わない。

古い伝書が記しているように、剣およびそれを構えた両腕部、肩を落としたり立てたりすることなど、頭や首など、全身各部が連動することが求められる。

若くて筋力もあった頃にできなかった動きが、中年になって筋力が衰えてからでも、あっさりと可能となったりするから、前近代の身体技法、古い形の導きは驚異的である。

それは理屈ではなく、最初はまさに身体と五感で学ぶのだが、その後で伝書を読むと、自分の中でさらに整理され、難解だった文章表現が、体験的にしみじみ読めるようになっていく。

ことに、忙しい攻防中、場の瞬間のなかでも、より深く時間のなかへ潜入していき、濃密さと変化の玄妙さを、落ち着いて堪能できる能力は、年を経るほどあがるのではないか、というほのかな予感と期待がある。今後の稽古の楽しみだ。

このように、己が人間として生得している心身の構造と、武の攻防としての不可欠なこと等を規矩に稽古していけば、いつもの如く、全く地味な動きで全く人気もでない。

しかし内面の実が満ちてくるから、多種多様な世界にもつながる、豊かなことわりが紡ぎ出される。