「わが市は、武士が発祥したところだ(!?)。だから武道の基本をきちんとやらなくてはならない。よって昇級試験のランクを細かく設定した。」

という、全く奇想天外な講話が、津軽でも生まれてきた。

「武士が発祥したところ」など、特定の市町村に限定できないことは自明のことだ。

さらに武は、武士だけではなく、17世紀から、町民や百姓など民衆にも共有されていた。

日本各地で、ある者は軍事や護身のために、ある者は腕くらべや競技として、ある者は奉納神事や芸能として、それぞれの職分や生活に応じて用いていた。

どれも間違いではない。

これらは武の多様性や豊かさを示しており、少しずつ変化しながら受け継がれてきた。

現代の我々も、そのなかから己に合う要素を受け継げばいいのではないか。

しかし文化の多様性が失われ、ひとつに平準化してしまうと、我のみ「正しい」が出現する。

それが己ひとりの信念ならばいい。

ときに自ら考えることなく、ひたすら上意下達にしがみつくことで、己の不安を解消する。

だから、自分の先師達の足跡を知ることなく、全国講習会で示された「正史」のみ信奉する。

やがてそれを己の名刺として、他者にも強い、異なるものを排除していく…。

「真実の歴史」など、生身の我々には、とうてい明らかにできないことかもしれない。

だが、はっきりいえることは、誤った歴史観は、過去も現在も未来もゆがめ、現実との齟齬から、我々の苦しみを産むということだ。

だからこそ人文学は、全くおそろかにできないのではないか。

私の拙い武術・武道史研究は、平準化と闘い、目前の現実を生きぬいていくため始めた。

祖父の代から、ふるさとの各古流は存亡の危機にあり、近代武道からは異端視されていた。

まずは、ふるさとの武の歴史が、どのように変化してきたのか見つめ直すこと。

そのなかで家伝と己自身が、なぜここに立っているのか、整理、確認することが急務だった。

学びは本当に素晴らしい。

歴史的事実を知ると、曇りが晴れ、希望と勇気が湧いてくる。

その学びを、現場主義や精神主義、古流を異端視する風潮と闘うための智恵とした。

それでもやはり、祖父や父が口酸っぱく説いたように、武は実力の世界である。

「ならばお前は実際にできるか。口先だけでなく、いまここで、実技で証明してみせよ…!」

という「事理一致」が、何度も何度も試された。

たとえ愚者でも、代わりがいないこと、この世界の存続がかかっていると思うと引けない。

無数の悪戦苦闘が、私の実技をよくよく鍛えてくれた。

理論が、自分の肉体を通じてなんとか実現できると、深い安堵と確信につながる。

いまもその模索は終わらない。

武以外の各種技芸でも、研究と実践の世界がある。

現代では、それぞれが分離し、独自の世界を練り上げ、交わらないことも多いようだ。

先日、民俗芸能を研究・実践する「北文研」ほくぶんけん・北東北 無形文化遺産実践研究協会

を立ち上げた下田雄次氏と一致した見解がある。

確かに学術研究は、いまの未明を拓いてくれる素晴らしいものだ。

だがその一方で「研究者のための研究」では、現場はほとんど救われないこともある。

例えば祭礼で、不可思議な所作の民俗芸能があり、伝承者間でも混乱しているとき、

「それを「前近代の身体技法である」とすること自体、近代以降に認識された「新しい概念」にすぎないのだ」と指摘する。学論としてはその通りだろう。

しかしその理屈は、外堀から眺めている第三者内部で完結する言葉にすぎない。

生の伝承を背負い、いま懸命に泳いでいる実践者が

「ならば、いまここでどうすればいいのか」という切実な問いには、全く答えていない。

私自身も、この家伝剣術伝承や古武術世界に対し、責任を負う当事者、実践者である。

客観的視点に留まっているだけでは、受け継いだ伝承は滅びてしまうだろう。

経験上、対岸にいるだけでは全くだめで、向こう岸へと渡り、我を忘れ、その世界と渾然一体とならねば、活きた技など出現してこないものだ。その世界の全貌も見えてこない。

「正解」など知らないが、実践しては失敗し、考えてまた実践を繰り返し、歩いていく。

たとえ愚かな歩みでも、一生歩ききれば、過去の先達たちも許してくれるのではないか。

百年前の父祖と私の顔が異なるように、武は今後も、多様な変化と役割を生んでいくだろう。

一世紀後の子孫達は、どんな剣技を伝承しているのだろうか。

以下は愚かなロマンである。

生身である限りは、戦国期も近世も現代も、人類として共通する心身構造を規矩とすれば、それほど大きく逸れずに探求できるはずだ。

この家伝剣術や林崎新夢想流居合の稽古でも、遺された形が触媒となって、遠い過去からの示唆が、立ち上がってくることがある。

己の心身が、小さな枠組みから拡張し、時間を超えて、会えるはずがない数百年前の開祖、父祖達、先師達の「生きた心身」の一部にアクセスできたかと、淡い希望が生まれる。

彼らが目指していた、命を包む大きな世界にアクセスできたか、という深い喜びが身を包む。

己の心身で実践したからこそ、読めるようになる、古い伝書の表現がある。

これは客観的には証明できないが、伝承の実践者にとっては、確かに感じたリアルである。

しかし今後、AIと融合して、心身の構造を根底から転換させていった未来の人類になると、どうなるのか、全く予想もつかない。