家伝の卜傳流剣術伝書では、全身各部同士と大地との「権衡」を説く。それが失われると体に負担がかかり、道具の重さを感じると説く。

これはおそらく当流だけではなく前近代の諸流にも共通していた。もちろん林崎新夢想流居合にもだ。

だが、現代の武道稽古の現場では、ほとんど聞かれなくなった教えであり、対照的にパワーとスピード最優先のため、若年のうちから稽古で身体を痛めてしまう子ども達が急増している気がしてならない。

なお、この「権衡」は日常ともつながる。

古い家伝が説く「権衡」とは、求めても求めても、答えがわからない特別なものかと感じていたが、ふだん近くにあったのだ。失ってはじめてその存在が、有難さがわかった。

ここ一週間、風邪で寝込んだ。

ようやく治ったが、病になってはじめて、誰しもふだん健康であることが、いかに強く、精妙な心身の働きをしているのか、つくづく知らされた。

おそらく、ふだん元気なときにはその存在を感じていなかった、我なりのレベルでの全身と地面との「権衡」が、かなり崩壊した。

すなわち「けんこう(健康)を失って、けんこう(権衡)も失う」のである。

あたかも全身が、バラバラのブロックを無理やりつなぎあわせた、鉛の塊をひきずっているような、ぎこちなさに陥った。

身体が不調になると、ココロも連動して不調になる。

このひとつひとつが、ふだん蓋をして、目を反らしてきた己の醜さなのだ。

ひとつひとつ、そのダークサイドの正体を見つめ直していかねば、一生私は成長しない。

「権衡」は、どなたにもある天与のものであり、その人、年齢、体調、その日ごとの権衡があるのだろう。

ひとりひとりが己の内へ深く訪ねていく稽古のなかで感得されるだろう。

誰かが「これが正しい権衡」と定めてしまえば、普及活動には便利だが、現場では齟齬と苦しみを生むだろう。

今日の、いまの、わたしの権衡を求めて、静かに心身を整え養っていこう。