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稽古で「正しさ」を繰り返すことは大事だが、問題もある。
すなわち「正しさ」「先生の教え」に囚われすぎ、順守することで安心してしまうと、
精妙に生きている己の心身にブレーキをかけ、固着させてしまうことがある。
「正しい歩き方」「正しい話し方」だけでは、日常を生きていけないように、
己の「正しさ」をなぞるばかりでは、己の「いびつさ」を強化して、自分を超えた現実世界に対応できなくなる。
ことに形稽古はそのような弊害に陥りやすい。
なにより、いま生きていることこそ大事にしなくては、変化を最重要とする武にはなりえない。
だから稽古より先に、いつも自身のまなざしを錬磨し、鋭敏にしておかなくては、新しい気づきは、風景は見えてこない。
例えば同じ稽古でも、日によって、次々と新しい気づきが降ってくる日もあれば、
まるで石の壁を叩いているような不毛な日も少なくない。
その違いは、私自身の内にあるのだろう。
心身が素直に活きている日は、ひとりで動き自体を見つめ直すには、格好の日だ。
そんなとき、先人達が残してくれた古い形は、本当にありがたい。
自分の身体を、武具とのつながりを、じっくり探っていくための器として形を稽古する。
ふだん、いかに不要に力み、よけいな動作を含んでいるのかが見えてくる。
それをそぎ落としていく。
なお、武具と一体となるためには、あえて、それを持ったときの違和感にも注目すると、見えてくるものがあるようだ。
なぜ古い形がいいのか。
個人発明の形は、ややもすれば個性が強すぎて合わなかったり、その個性ゆえの限界もある。
何世代もの試行錯誤のなか、多くの先人達の身体を通過してきた形ほど、
いびつな部分は溶けてまろやかに熟成されているから、人を選ばず、誰の身体にでも寄り添っていく可能性が高い。
それでも、一人稽古で気づいたことが、生きて変化する相手をつけてもできるとは限らない。
独りよがりの「正しさ」で終わらぬよう、対人の稽古へ投げ込み、試していく。
様々な方々が集まる修武堂は、そのための場にもなる。