昨日の修武堂稽古。

みんなで家伝の卜傳流剣術と、林崎新夢想流合を稽古した。

家伝剣術は小太刀をやった。

たいがい古流剣術には、小太刀の技法がセットで伝承されている。

だがスポーツチャンバラ等の打ち合いで、短い小太刀で大太刀に対抗するのは至難の業だ。

だが、往時の実際の戦いでは、可否を問う前に、やらざるをえないことが多々あったろう。

また、フラットな競技コートではなく、野外や室内などで遮蔽物が多い場所ならば、必ずしも短い小太刀が不利だとは限らない。

稽古では、大太刀に対して長さで劣る小太刀が、どのように対峙していくかを学ぶ。

身体技法と、それを裏打ちする、拍子や調子という内面と彼我の関係性…。

それにしても古い形は、いろんなことを紡ぎだしてくれる。

先日、風呂のなかでハッと気づかされた遣い方。

剣術と体術が同居した十手術のような遣い方。

公開演武で示す技法と、そこでは全く示さない、ドロくさい、実利的な遣い方もご紹介した。

それは古伝の形を、恣意的に変形させたり追加して、新しく造る技法ではない。

それでは形の普遍的な機能を壊してしまっただけだ。安易なマニュアルを増やしただけだ。

そうではなく、古い形が示す所作を行うなか、自ずと発生することがある現象の一例にすぎない。

夜は、今春に実社会へと旅立つ若い学生さん達の送別会。

飲みながら「この現代において、前近代の剣術に意義はあるのか、常に自問自答している。」

とつぶやいた私に対し、当会の畏友S氏は、誠に的確な示唆をくれた。

「生きていくことは常に変化への対応の連続であり、そのなかでいかに生きのびていくのかを学ぶ方法となるのではないだろうか。」

学生達にとって私は、拙い指導者だったが、これから社会のあちこちで活躍するだろう彼ら彼女らが、この武の世界もさらに豊かに展開していかれることだろう。