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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

津軽にもようやく春が来た。

深い雪に埋もれていた庭の小さな稽古場が、ようやく地表に出てきた。

またここで稽古ができる。

先日は、弘前で武学研究会を開催された光岡英稔師範と幹事S氏、外崎源人氏を我が家の稽古場にお招きして、林崎新夢想流居合の研究稽古を楽しんだ。

稽古場には、先祖達が使った黒ずんだ古い木刀だけではなく、様々な武具や正体不明のガラクタまで山積している。

それは、私の稽古における、さまざまな徒労と模索を表しているようだ。

さて、林崎新夢想流居合の研究稽古。

遺された形式と手順を墨守するだけの体操では、武として全く通用しない。

己自身の心身を通して、いかに活きたことわりを見いだしていけるか。

一般に古い形は、仕太刀(弟子側)へ、より厳しい条件を求めてくる。

そのなかで「こうするしかない」という必然性、一筋の光明を見いだしていく学びこそが、実際の危機的状況においても活きるという。

しかし、そのような形の状況設定を解析するだけでは、わからないことがある。

すなわち、形が提示する所作をとることで自ずと発生してくる身体の状態、

そして技前、技の後に生じるだろう、形以外の様々な展開の可能性まで予見し、確実に封じられるような位取りを行い続けること。

(なお「位(くらい)」とは「これだ」という固定的な存在ではなく、常に相手や周囲との相互作用で変化し続ける存在である。

だから己自身が「位をとったぞ!」とするのはたいてい誤認が多く、そこが居着きとなり敗因となる。

よって逆に、対峙している目前の相手の状態から「己が位をとった」ことに気づかされるものだ、という古伝もある)

短い時間だったが、三尺三寸の長刀の仕太刀(弟子側)を導くため、九寸五分の小刀を操る打太刀(師匠側)の存在と役割についても再考できた。

当たり前だが、この打太刀は、三尺三寸刀の修行過程をすべて修得した者が務める。

一見、ただ正座しているだけに見える。

それは不動明王の像にも似てはいないか。

不動明王が、右手に短い剣を立て、左手は水平または下方にして座ることで、右半身が垂直方向へ浮きがかかり、左半身には沈みがかかっているような「天地眼」「牙上下出」の左右非対称の姿勢から、独特の位と鋭い小刀の突きが生まれるようだ。

その心身によって、常に、三尺三寸側の生殺与奪の権をつかんでいる。

だからこそ、その稽古を導くことができる。

しかも、その稽古における九寸五分側の攻めが、いままで想像していたレベルより、遥かに厳しいことが感じられてきた。

いまの私のレベルでは、まだまだ対応できないと痛感させられた。

このような打太刀の役割は、古流全般に共通することだろう。

稽古が、単なる闘争や安易な度胸試しではなく、

危険へと通じる深い淵をのぞく境界線上を歩きながらも、

弟子が安全に技量を磨いていける場を生み出すチカラを備えた者だけが、師役を務められるのだろう。

それを思えば、全く師側ができない己を、改めて痛感する。

しかし古流が存亡の危機にあるいまは、身の回りで、このような稽古観さえ失われつつあり、形は実用性から乖離した昇段科目かセレモニー用として誤解されている。

チカラがなくとも立つしかない。

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