武は「対立」を宿命的な課題としている。

だから稽古や試合が激しくなるほど、どうしても、いい感情ばかりではなく、負の感情も次々と湧いてくることがある。

それにどう向き合うかで、修羅の無間地獄に陥るか、文明の智慧としての武になるか分かれる。

勝った負けたと、その場かぎりの勝敗に拘泥し、そのことを己の稽古観へ強く刷り込んでいくばかりでは、その先はますます暗くなるのだ。

そのような延長上に範士八段、七段の高段者になっても、稽古のなかでの感情のもつれが、そのまま人間関係のトラブルや、除名問題へと発展してしまうことがあるようだ。

または、闘争心と根性を育てるためだと、無用に厳しいシゴキをする。

ことに剣道の懸かり稽古こそ、上位者が圧倒的優位のまま、下位者を思うがまま追い込み、暴力をふるい、上下関係を心身へ刷り込むための効果的な装置に陥ってしまうこともある。

だからか「あいつをシゴイてやった」と、自慢げに語る上位者が少なくない。

だが、単なる一方的ないじめに陥るだけでは、そこから育つ弟子も、同じ負の連鎖を続けるだろう。

「人間形成の道」遥かなり。

だからこそ、指導者のセンスが、力量が、厳しく求められている。

それを聞いて、江戸期の津軽の古流のなかには、他流とは仕合するが、同門同士では仕合をしない、という掟を掲げていた流儀があることを思い出した。

その掟は、武の稽古でどうしても宿命的に生じてしまう個々の負の感情について、

互いにそれをコントロールしなくては、稽古の場そのもの、流儀全体が荒廃し、

やがて崩壊してしまうだろうことを防ぐため、先人達の経験智だったのではないか。

どうすればいいか。以下は現在の私見である。

例えば、稽古のなかで、見事に打ち込まれたとする。

そこで「コノヤロー」と仕返しをしていけば、その場かぎりの空しい軍鶏の喧嘩に終始する。

そうではなく、その太刀は、互いの心身を器として発現した、人間存在そのもののことわりの一部ではないかと、とらえるのはいかがだろうか。

その普遍的なことわりの出現そのものに、それを協奏的に生み出せたことに、深く感謝すべきなのではないか。

勝敗や感情に拘泥せずに、術理そのものの質に注目し、その発現に感謝と喜びを感じていく稽古に終わりはない。ますます我々を豊かにし、広がっていくことだろう。

その稽古方法のひとつとして、組み太刀は大変優れた方法なのではないか。

私の拙い剣術は、圧倒的な現代兵器の前には児戯にも等しく、全く無力だ。

しかし、互いに高めあう喜びがあれば、

現代兵器を製造し、操る、我々人間そのものを背後から支えている心身文化、哲学へとつながれば、全く無力ではないはずだ。