ここ数か月、博物館の資料整理で、美術品の梱包や輸送のプロ集団と仕事している。

そのなかの長老でひとり、見事な所作の方がいる。

他の学芸員は、貴重な資料を梱包する彼の技術に感心する。

しかし私はそれだけではなく、繊細な器物を破損しないよう、丁寧に運んで床に置いたり、起居する所作が、全く力みなく、流れるような軽やかさで目を見張っていた。

鈍重な私ならば、力みで関節がきしむような場面でも、彼はそうはならない。

各関節を、身体のなかを、涼やかな風が通っているかのような浮き身がかかっている。

彼の同僚達は、私と同じように力感に詰まっている身体だが、彼だけ特異である。

舌を巻くばかりだった。

しかしその風貌は、なんだか私が小さい頃憧れた、堺正章の「孫悟空」を彷彿させるので、

私は勝手に心の中で「斉天大聖」と尊称している。

すみません…!

先日、その斉天大聖がハシゴを登ったときのことだ。

一番上まで登ったとたん、偶然ハシゴの安全装置が壊れて、ハシゴごと崩落した。

瞬時のことだったが、斉天大聖は、潰れていくハシゴの上で、あたかも筋斗雲に波乗りするかのように難なく、ふわっと着陸して全く無事だった。

やはり凄い身体能力だ。

なぜあの長老は、あれほど見事な動きを習得したのか。

思えば、そのお仕事は、重要美術品を大事に扱う毎日だ。

様々な素材と形態、特性を瞬時に見極め、どの部分をどのように触って扱えばいいか、

全身のセンサーを鋭敏にして持ち運びする。

例えば、お盆にお茶を乗せて運ぶときを思い出してみよう。

お茶がこぼれないよう、我々は「自分」というものを消して、その器物に寄り添い、その特性に耳を澄まし、心身ともに一体化させる。

道具に導かれ、身体技法が精緻になっていく。

斉天大聖はそのような日々を長年生きてきたのではないか。

道具の扱いが身体運用を整えてくれることは、茶の湯でも、弓馬剣槍もそうだろう。

家伝の卜傳流剣術では一本目「生々剣」の稽古がまさしくそれである。

ところが我々は敵を前にすると、自分の思い通りに剣を振りたいし、思うがままに打ち込みたいと願って稽古する。

ところが、武具は自分ではないし、その向こうに対峙する敵も自分ではない。

すなわち、我が思い通りには全くならない場や他者と向き合うのが武の特性なのだ。

ならばどうするか。

自分ではない存在へと、こちらから開いて耳を澄ませていくしかない。

そこから、己が思いもつかぬ新しい世界が見えてくるかもしれない。

そう思うと資料の運搬も、心身の運用を精緻にしていく、武のいい稽古になりそうだ。