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林崎新夢想流居合の稽古は、今までの身体と技法を転換させていく。
同流は、脚への斬りや突きを斬り伏せる稽古が多く、剣道で、突っ立った構えになじんだ私は、身体の組み替えを迫られている。それが面白い。
「正しい」とされる直立姿勢で激しい攻防を行う近現代剣道。
それで培った心身をベースに、その濃淡や粗密を全身へとならし、オールレンジ「八面玲瓏の身」へ進化していく方法として、この「規格外」の古流稽古は大変、効果的だ。
幕末から近代の撃剣や剣道で、試合の判定上、稽古の安全上、打突部位や技を制限したことは誠に優れた工夫だった。
だが、その体系に馴染み、その身体観を何度も刷り込んでいくほど、ルールに基づいて身体のなかで感度が高い部位と、そうではない部位が発生してくるようだ。
具体的には、面、小手、胴、突き等の打突部位を打ち打たれることについては非常に繊細だが、それ以外の身体部位については、打たれても認識しない。鈍感になることがある。
だが、手指、袈裟、二の腕、両脇、脚部…、いずれも試合や稽古では有効ではないが、防具のない実際の攻防ならば、大きなダメージとなる。
さらに「防具があるから当たっても大丈夫な」攻防と、「素面素小手だから、少しでもかすったら大変な」攻防では、心身が、技法が、全く変わってしまう。
当たり前のことだが、古流は、全身への攻防を前提として、技法体系が編まれている。
そこことを、愚鈍な私は、形の手順をなぞるだけでは実感できなかった。
だが実際に、打突制限を設けずに袋竹刀で打ち合い、何度か実験してみれば誰でもわかる。
今まで意味不明と黙殺していた古流演武とそっくりな現象が、ときおり我が身に出現する。
すなわち、これらの古い形を残した先人達は、すでに経験済みのことなのだ。
そのことを知ったとき、目前の「退屈な」古流演武が、リアルに感じられてくるだろう。
その気づきは、睫毛の先にある。
「正しさ」からいったん脱線してみる勇気がなくては見えてこない。