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先日、東京での武学研究会の休憩時間のときだ。
同会代表光岡英稔師範と、ゲストの甲野善紀師範との雑談に加えていただくなか、光岡師範から慧眼が示された。
古い武の形とは、当時の人々からすれば「動けば自ずとそうなる、そうせざるをえないという身体の必然性から生まれたのではないか」という推論である。
日本文化は形の文化だといわれて久しいが、
現代では、各技芸における形の意味や役割が、ほとんどわからなくなっている。
形が、順番をなぞるだけのパフォーマンスになったり、
自由攻防をしてみれば形どおりにはならないから、全く否定される方も多い。
だから古流武術をやる人もいなくなり、急激に衰退し失われていった。
形がみえなくなったことは、とりもなおさず、いかに現代の我々が、それを生んだ先人達の身体から変容してしまったのか、という証左だろう。
私もその時代を生きている。
だが、5歳の頃から、家伝剣術の形と剣道の竹刀稽古を併習し、それぞれの特性から学んだことは甚大だ。
その一方で、形を、手順を守るだけの儀礼とすることには耐えられなかった。
手順を墨守するだけの行為も、長い歴史のなかでは文化の記憶装置となるが、活きて使える武たりえない。
また竹刀稽古については、いくら試合や大会で勝とうとも、その興奮は一時だった。
「いまは勝ったが、体調や運が日々変わるなか、次も同じ相手とやって必ず勝てるか」
「世の中にはもっと強い者がたくさんおり、年老いていけば、とうてい対応できなくなる」
という内なる不安から、自由に打ち合う稽古が、かりそめの現象、ジャンケンのような虚しさに感じてしまった。
すなわち、形にも自由稽古にも、確かな必然性を感じきれなかった。私の低いレベルのせいもあろう。
もちろん武に「絶対」はない。
しかし「今回はダメだが次回はがんばろう」とできる競技ではなく、
先祖達が体験した生死の場をきりぬける方法ならば、
「たとえ勝たなくとも敗れない」という、より確実で安定性のある方法こそ求められる。
よってその場において、より必然性のある心身こそ、生き残る可能性が高いのではないか。
「必然性」とは何か。神ではない我々人間がわかるはずもない。
だがその小さな一歩として、まずは、一番身近な己の身体の必然性から、少しずつ学んでいくしかない。
そのための手がかりとなるのが、個々の個性を越える「必然性」を、世代を越えて伝えてきた古い形ではないだろうか。