剣の稽古では、いまの稽古ばかりではなく、先人たちの遺産にも尋ねたい。

18歳のころから約20数年間、日本各地へ武芸伝書調査をして、少しずつ関係史料を収集してきた。

「いつか解読し、稽古に活かそう」とはかけ声ばかり。

家伝伝書もすべて読んでいないのに、さらに同系流儀の難解な伝書が蓄積されるばかり。私ひとりの能力では不可能だ。

よって稽古のお仲間にも助けていただき、一緒に分析して、稽古を前へ進めたいと、デットストックだった林崎流居合伝書データをお配りする。

「みんなで共有し活かしましょう。」

すると、なんだか肩の荷が下りたような気がして、自分は違うものを読み始めたから勝手なものだなあ。

まずは17世紀の佚斎樗による『天狗芸術論猫の妙術』。

十代の頃、具体的な技を求めて理解できなかった。再読していまさらその面白さに気付く。

ずっと。わからなかった稽古のありよう、後進への指導についてもなるほどと腑に落ちることが多い。

それでも私はあきっぽいのだろう。古典ばかりに耽読できず、常に「いま」も気になって現代も読みたくなる。その逆もある。なぜだろう。

社会学者による1990年代から現在の社会状況分析も併読。

全く異質な著作だが、私は勝手につながりを感じた。

いままで我々を暖かく包んでくれていた身近な共同体と生活圏が、急速に縮んでいる。

穴を埋めるという理由で、大きなシステムの管理が広がり、住民もそれに依存し始めた。

すると、生身の顔と生活はどうでもいいから、外側からやってくるシステムに応じた役割を演じ分ける、解離性人格が求められるようになるという。

これは世の中全体にとっても、どこか大きな流れへ止まらなくなる危険性もあるし、個人にとっても「わたしは本来何者なのだろう」とまじめな心身は、ずたずたになるだろう。

どうするか。

もしかすると、百数十年前に実用性を失った、この古い剣も、お役に立てないかな。

なぜならば、転変する困難を生き抜くため、心身を調和させる智慧と技法だったはずだからだ。

現代の武道や格闘技ではよく、試合や昇段等の経歴を誇り、わたしたちは憧れる。

だがよく考えるとそれは、長い武の歴史のなかにおいては、新しいムーブメントだ。

すなわち、整備したシステムのなかでの練度、役割をいかに遂行したか、という証明書であり、近代以降、スポーツのシステムを導入してからの価値観なのだ。

確かに他人には不可能な偉業であるが、それを成し遂げた強豪や名選手、アスリートが、範士や教士といった高い称号を持たれる方が、それより広い現実社会、人の世に出ても、必ずしも優れた人物であるとは限らなかったり、無力であったりして、我々の憧れが裏切られることもあるのはなぜか。

その技や資格が、必ずしも全人的なものと直結するとは言い切れないこと、その世界内のモノサシが、外部でも通用する普遍的なものとは限らないということか。

よってわれわれは武において、優勝経歴や資格で判断する、というスポーツの方法が万能ではなく、価値観のひとつであることを認識しておかなくては、稽古方法そのものを、ひいては稽古人生を誤ってしまうのではないか。

古い武が、この世界を生きぬいていくための知恵と技法だったならば、それぞれ境遇が異なる固有の人生は一列に比較不能であり、一位も最下位もつけられない。

金メダルをもらうことはないが、エントリー不要、戦力外通告や引退もない、この世を生きる老若男女すべてに開かれていることになる。

向き合っていたのが昇段や試合ではなく、目の前の現実であったためか中近世の武芸伝書を読めば、当時の人々が具体的な技術の練磨を通じて、人と世界の在り様や仕組みまで解き明かそうとしている。スケールの大きな哲学だ。

それでは、現代のわたしたちも、どのようにすれば芸術(技)が道学(生きること)と結びつき、全人性を高めることができるのか。

古人はいう。

日常生活の雑事のなかでも「心の移る所、耳目にふるる所の物を以て打太刀(稽古相手、一般には師匠や先輩格が務めて後進を導く)として心の修業はなるべきことなり」とし、そのうえで、現実の危機や困難に向き合ったときは(試合ではない)「敵に向ふときは我がなるべき程の働きをなして、死を快くせんのみ。何の憂ふることかあらん」(『天狗芸術論 巻之二』)

昨日、修武堂の定例稽古中、ふと我にかえって周囲を見わたした。

となりでは、師匠の号令で「正しい基本」を一斉に繰り返す厳しい稽古が行われていた。

それに比べて我々は実に地味でマイペース。

剣、居合、棒、体術など、各自がめいめい探究したいものを試行錯誤している。「正しい基本」があれば、本当にそうなのか、実地で再検証することもある。普通の道場では絶対にやらないような設定も実験してみる。

なぜ滅茶苦茶なのか。すわなちわたしたちの稽古は、昇段や試合というシステムに習熟し、褒美をいただくためではないからだ。

それぞれが未知なる己の心身を問い直し、新しい発見をしていくことを喜びとするからだ。そこから、どんな答えが導かれるか誰もわからない。だから面白いのではないか。

ある気づきによって、いままでの身体のクセが転換すると、いままで悩んでも解けなかったはずの心のモヤモヤがなぜか一気に晴れたり、日常のトラブルへの向き合い方が浮かび上がってくることも多い。

誰かに「正解」を教わって順守する受け身の学びと、拙くとも自ら課題を発見し、己の方法で答えを探っていく学び。

どちらの学びから、混迷の現代を乗り越えていく主体的な智慧が生まれてくるのだろうか。

(そして昨日の稽古中、いまさらながらに自覚したが、あまりに素朴な所作の家伝剣術は、残念ながら必ずしも普及には向いておらず、むしろ人を選ぶのではないかということだ。現代武道が要求する身体観でも、流行の「サムライ」イメージでも理解しにくいだろう。私だって継承する家に生まれなければ、稽古でようやく気付けたこの喜びはわからなかったろう。ましてや流儀が自由に選べる立場では…。これはますます寂しいことになったなあ。)

 

そしてなぜ、人ならぬ天狗が剣術の「芸術論」を説くのか。

それは彼(彼女かな?)が、人が考える規格を超えたところ、自然と人間の底を共通して貫き流れているものに立っている存在だからではないか。

我々の心身も未知なる自然だ。

未知なる我を探る方便としての武、剣である。