他人まかせで、己の生身の身体から離れた理合。
全国組織の中枢に提示されたものが唯一の「伝統」「正しさ」だと絶対視、権威化し、
盲目的にひたすら繰り返すだけが「美徳」である。
となれば、個別の事情が異なる、ひとりひとりの心身が壊れていくのは当たり前だ。
武でもっとも重要な己自身の主体性を失って、いったい誰のための心身なのか。
壊れようとも、「お前が悪い」「私が未熟だ」と、大きな「正しさ」にすがろうとする。
そのような行為に安心感を覚える方もいる。
だが、困ったことにヘソ曲がりの私だ。
ただ上意下達の稽古だけで、自らの心身で主体的に模索したり、創意工夫する喜びを失えば、
やがて人々は離れていき、そこに留まる人は墨守することが好きなタイプが多くなり、
やがて分野全体の活力は失われていくだろう。
その現象は身近なところでも発生している。おそらく全国各地と同様なのではないか。
「そこ」からはみ出したら「間違いだ」「終わりだ」とおびえることはない。
実は、そこから一歩踏み出すだけで、外には広大で豊かな世界が広がっている。
なぜならば、もともと武の理合は、剣の理合は、遠い組織の中枢ではなく、
生きている我々ひとりひとりの身の内に、もともと備わっているものにヒントがあるのだ。
おそらくそのような人間の根源的な能力こそ、最も困難な場で、想定外の危機で頼りとなる。
あまりに高度な内容で、現代の我々が解読できないレベルの武芸伝書を残した先人達の技は、多彩で、現代の「正しさ」から見れば、おそらく全く当てはまらないものだったろう。
それを近代以降の我々が「術の小乗であって、道の大乗へと昇華していない」と批判するのは簡単だ。

だが先人達が、中枢に依存することなく、ひとりひとり異なる生の現場に自ら向き合って心身を陶冶し、
我々が体験したこともないような危機と生死の場をくぐり抜けてきた事実に対して、敬服すべきだろう。
ささやかながら、家伝剣術と修武堂を通じて、そのような方法を、学びの場を、再生したい。