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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

家伝剣術

通勤電車で「兵法自観照」を再読している。

家伝剣術と同系統である新当流の有名な伝書。分厚いコピーをカバンに入れて通勤。

以前、読んだときは、私の低レベルにとっては、かなり難解だった。

ところが今は不思議にも、少しだけ理解できるようになったか。

まだまだ冒頭部分だが、家伝剣術との共通性を感じたり、「なるほど、そうだったのか」と目からウロコが落ちたりして、膝を叩きながら拝読。

なぜならば、どんな講習会や本でも納得できなかった、武や剣技、稽古方法に関する疑問点、悩みに対する、具体的かつ明解な答えがいくつも示されているからだ。

こんなに凄いことが書かれているのに、なんでみんな読まないのだろう。最近読んだ、どんな話題の新刊本より、わたしにとって意味がある。

伝書コピーに、いくつも赤ペンでアンダーライン、書き込みが増えていく。

武芸伝書というものは、いくら辞書を引いても読めない。逆に間違いだらけの文法、矛盾に満ちた説明に見えてくるだろう。20代の頃のわたしはそうだった。

(だからか武芸伝書は、ほかの中近世史料に比べて、あまりその価値が認められていない気がする)

武芸伝書は、アタマだけではなく、身体を通じて読まねば、心身をフル動員しなければ、何も見えてこないのだ。

稽古を重ね、伝書を残した先人たちの感覚と、ある世界観が共有されてきたとたん、急に武芸伝書は具体的なことを語り出す。

そうなれば先人たちとの時間を超えた、生きた会話が始まる。修行者にとって幸甚の極みである。30代以降の私だ。

しかし、いまのレベルでは、まだまだ一割も理解できていないだろうが、その一割だけでも私にとっては、あまりに多くの深い示唆があり、かなり興奮している。

それとともに、いかに我々、近現代以降の武術、武道が、往時のほんの一部の術理しか使っていないことが、ひしひしと感じられてくる。

伝統派である古流が「進歩なく、同じことの繰り返しである」という人がいるが、それは間違いだ。

なぜならば、現代の我々は、往時の術理(それは、何百年、何世代の実体験を通じて蓄積、熟成されてきたデータベースでもある)を「再現」できていないし、「繰り返す」どころか、ほとんど失うか、忘却してしまっているからだ。

そして我々が「新しい」と考えている試みのほとんどは、すでに先人たちは通過して答えを出している。

なにより、武芸伝書が示すレベルは、その当時でさえ、修行者全員が体得できていたものではなく、少数の者以外にとっては、遥か彼方に浮かび上がっており、生涯をかけて目指す啓示のような存在だったのではないか。

ますます稽古眼目が増えてきた。これは楽しみだ。

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