林崎新夢想流居合「向身」五本目の「幕越(まくごし)」

今回も不可思議な所作で満ちている。

そのひとつが「幕越」という所作だ。

おそらく先師達が、微妙な感覚を伝えようとして、身近な所作へたとえてみた言葉だ。

このように中近世の武の技名は、抽象的な表現や漢文の素養がある。一方で近現代の技名の多くは、即物的な表現が少なくないような気がする。修行者の世界観の変化を反映しているのか。

さて、いつものように仕太刀は歩み寄り、正座している打太刀の両膝の間に、我が左膝を入れて扶据し、腰の三尺三寸刀の柄で相手の左二の腕を押さえる。

改めて説明するが、毎回やるこの所作は、抜刀時になるべく右手を前に出さずに、左半身と全身の連動で抜くようにするための仕掛けである。

一触即発の間合いにおいて、右手を前に出して抜くのは命取りだ。

その所作を剣術の術者は待っている。右拳が間合いを越えた瞬間、それを打ち落とす。

だから居合では、なるべく右手を出さずに、間合いを変えずに抜刀したい。

またそれだけではない。右手で抜かずに全身で抜くことにより、初発刀に全身の重さが載る。

当流では、このような三尺三寸の抜刀稽古を通過してきた者が、師である打太刀となり、その理を活かして九寸五分の短刀で仕太刀を追い込む。なんと厳しい稽古か。

さて稽古の続きへ。

向き合い、身を接して座っていた打太刀が、九寸五分の短刀を発剣しようとする。

打太刀はその未発の機をとらえ、相手の胸へ三尺三寸刀を抜き付けて封じる。

このように低空において、刀と我が身をバッと四方へ展開する稽古は、あたかも自分が平蜘蛛かアメンボになったような気がして面白い。

二足直立歩行だけが万能ではなく、太古の人類が四足歩行だったろうこと、ときに応じて使い分けることの利便性も体感的に理解できてくる。

抜き付けた後も仕太刀は、刀の高さを変えずにそのまま、防身の構え、そして当流独特の納刀(右半身と刀の柄を右後方へ大きく引く)へと、ゆっくり流れるように変化する。

これがそのまま残心となる。

仕太刀が納刀しようとしているところへ、打太刀は抜刀し、右手を高く上げて斬りつけようとする。

すかさず仕太刀は、高く振り上げた打太刀の右二の腕へ、刀を突き入れるように差し込み、下から上へえぐった後、刃を上にして引き寄せ、切っ先を打太刀の喉元へつける。

これが不可思議な一連の所作「幕越」である。

いったい我々に何を導いているのだろうか。

まずはこの稽古によって、右半身と刀を右後方に大きく引く当流独特の納刀が、決して「完了」ではなく、いつでも目前の相手へ突きを入れることができる所作だったことがわかる。いつも油断できない戦国期の厳しさだ。

そして、打太刀が振り上げた右二の腕へと刀を突き入れ、えぐる所作だ。

(なお、突き入れる箇所は、本当は相手の顔面だが、稽古の安全確保のため、代わりにその横の右二の腕へと突き入れるのだ、という説もある。)

この所作について、あたかも幕の向こうに隠れているものを刺して探るようにする、という教えがあり、それが「幕越」の技名となっている。これこそ言い得ても妙な名前である。

例えば我々は、垂れ下がった幕の向こうに何があるのか探るとき、思いきり手を突き出さない。

向こうを柔らかく探りながらも、いつでも手を戻せるようなニュートラルな力を使うはすだ。

よってこの居合いでも、刀を向こう側へ力まかせに突きだしてしまえば、刀と我が身との連携がちぎれてしまい、次の変化に遅れをとる。

そこで、刀と身体のゆるやかなつながりを保ったまま、あたかも植物か軟体動物の触手、またはワラビの芽のように、刀と腕、体幹が曲線を描いて変化していく理合に気づかせようとしている形ではないか。

よって幕越の所作こそ、ひとつひとつ区切って分解し、突いてやるぞ、斬ってやるぞと力んでいたのでは、技の生命力が損なわれてしまう。

形の手順は、ぼんやりとした交通標識であり、まずは流れを居着かせないことだ。稽古していくなかで、はからずも刀と身体の構造上、自ずと形が示すような動きとなることに気づく段階があろう。

よって往時の武は個人から個人への教えだった。工業製品のように規格を定めれば普及性は高まるが、幕越のような精妙な感覚は失われてしまうだろう。

幕の向こうを探るようにえぐった後、刃を上にして切っ先を相手の胸元へつける。

その後、いつものように天横一文字の構えから天縦一文字の構えになり、打太刀の突きを右へさばいて、その袈裟を斬る。

この一連の動作のなかで、刀と拳があまり体幹から遠ざかることがないから、刀は空中で同じような位置に浮いたまま、クルクルと旋回していくような動きとなる。

拳と体幹の関係性については、この居合の師範をやっていた我が先祖達が、家伝剣術伝書のなかでも細かく説いている。

私はまだまだできないが、おそらく刀の重さが消えるとともに、斬りには変化の速さと威力が載るようだ。

ともかく術者は、一連の動きを強く意識することで阻害してしまうので、むしろ身をまかせて協調するよう動けば、刀と心身の居着きが緩和されて動きやすくなるとともに、新しい気づきと展開も生まれてきそうだ。

以上のようにこの居合は、長い刀を振り回してカッコをつける曲芸のための技ではないのだ。

次回は六本目。柔術も混じってくる。