昔の話を聞いた。

ある武道で、段位や範士、教士などの称号がほしければ、なるべく中央の先生方とつながりを持つこと、頻繁に飲み会に出ること、贈り物合戦をすることだったという。

我が家は代々それをやってこなかった。だから地方の修行者は永遠に…。

近代はそうでもなかった。地方にもアイデンティティがあった。

例えば近代初頭、中央の剣道家達が、地方へ普及・指導に来た際、青森県内の剣風が変わっていることを記録している。

例えば、弘前の北辰堂での地稽古では、地元の剣士達が、しきりに急所を突き、組打ちを仕掛けてくるので、中央から来た剣道家達は辟易したという。

また八戸にも、中央から某有名師範(現在では歴史上の有名な人物となった)が指導に来たときのことだ。

八戸在住で武芸十八般の武道家が、期待に胸ふくらませてその講習会に参加した。

すると、竹刀の振りかぶり方の指導を見て驚いた。それは先師達が、刀の場合、全く通用しない方法だと否定していた方法だったからだ。

その疑義を中央師範に問いただしたところ、師範は誤りを認め、学生向け普及用に変えたことを白状したという。

残念ながら、現代ではそのような気概はほとんどない。

すべてが平準化し、全国統形式で順列が完成したから、上意下達に慣れてしまった。地域制や差異は、全く馬鹿にされるようになった。

だが、いまでは社会が大変動している。

今まで己の心身を沿わせ、安心立命してきた大制度でさえも、頼りにはならなくなった。

どうするのか。

それでも我々自身は生きている。

近代、人間の身体の遣い方や観念は変化したが、生物としての基本構造は変化していない。

そして、稽古の道しるべとなる、刀剣の基本構造も変化していない。

この普遍的な二つの規矩さえあれば、たとえ中央とは無縁の愚かな私でも、

全くの的外れはなく、なんとか本質への羅針盤として、少しずつ歩んでいくことができるのではないか。

この乱世で確かなことは、おそらく、大きくは登録されていない、私たちのすぐそばにヒントがある。

すなわち、大組織に認められるかどうかよりも、時間をかけて少しずつでもいい、己自身の内側に豊かな規矩を養成していく稽古が重要だ。

混乱期では、特別な用途のために躾けられた限定された心身よりも、様々なことにも対応できる心身の方が有効だ。

それを通じて、ひとりでも為すべきことは為す、武士達のような自主自立の心身を涵養していくことこそ、乱世を生きぬいていく有効な方法とはならないか。

日々のこの小さな稽古は、それにつながっており、そのことで現代と斬り結んでいる。

 

だから日々の具体的な稽古法が大事だ。

まずは、ひとつひとつの技を磨き、それを組み合わせても、武の全体は成立しない。

また、ひたすら形をなぞるだけでも、変化に乏しくなる。

なぜならば武は、場や敵との関係性のなかで生きるものだから、その変化を体感しながら学ばなくてはいけない。己ひとりの都合に耽溺していては、全く通用しなくなる。

しかしだからといって、己の確かな規矩がないまま、ひたすらスパーリングで他人と関わる稽古ばかりでも、やがては肉体の限界が見えてくる。

もうひとつは、師匠のあり方だ。

剣道では一斉指導、家伝剣術では一対一の資師相承で育った私だが、いまは多人数を教えるために双方を組み合わせている。

だか正解はわからない。いまも模索中だ。

近代に日本が導入した一斉指導は、普及にはすぐれているが、その場を維持するために労力が削がれ、細かいところが伝えきれない。

やはり本当は、先祖達がやっていたように個別や少人数稽古がベストなのではないか。

そして現代の武の稽古場では、わたしも含めて様々なタイプの指導者がいる。

おそらく我々は、往時の武士達とは大きく変わってしまった。

武術や武道の師範よりも、近代競技の体育教師、近代軍隊の司令官タイプの方が多くなった気がする。

なぜならば、個々の尊厳が失われてしまった気がするからだ。

例えば、指導者が一方的に後進へ技をかけ、痛めつけていることがある。

まるで、指導者が自分の力を誇示するために稽古しているようだ。

確かに厳しさは必要だ。特に古武術、古武道というならば、先師達の教えをもとにその先を「稽古」していくのであり、それなしに、ただ自由にやるならば、現代の新しい技といえよう。

だがそれでも指導者は、弟子を自分のアイデンティティを保つ道具にしてはいけない。

それは、かつてこれらの技を生み出した、武士達の作法ではない。

人にはそれぞれの尊厳がある。そのことを無視するならば、武とはなりえない。

それでは上官の顔色をうかがう兵士は生まれても、自律した士は育成されないだろう。

これからの激動期には、命令がなくとも、試合コートがないところでも、自ら判断して動ける士が多い方が、私たちの社会もなんとか生きのびていけるのではないだろうか。

よって、昔の剣術のように、導く側が、自らの体で後進の技を受けながら、各自の力量に合わせて導いてやる方法を好む。

(なお、武の師であるならば、口先や号令だけではなく、自らも体を使って指導したい。)

実はそれこそ、師側にかなりの実力が求められるのであり、私も大変な勉強となっている。