古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

現代における武は、剣の役割とは何だろう。

当代の我々修行者が、よそから借りてきた言葉ではなく、自らそのことに答えられなければ、その世界は泡沫の夢となろう。

素晴らしい日本の伝統文化、精神修養、試合に勝つため、健康法、だけならば、他にも優れた分野がいくらでもあろう。現代の軍事技術には直結しない。町中の護身術だけなのだろうか。

もしも武が、混沌未明のなかを歩いていく知恵と技法ならば、現代でこそ活用されるべきではないか。

例えば現代では、ともかくルール順守が唱えられる。

「個々を守る社会」を維持するためには必要なことだが、社会が複雑になり、制度の方が最優先となって、より人間への影響力を強め、はみ出すものには容赦がなくなっている。

わたしなどは阻害されないよう、己を曲げてでも均質化し、ついていこうとしてしまう。

それに依存しすぎ、自己を改変しすぎれば、生き物としてのバランスを欠いて自滅する。

さらに大変なことには、そのように己の規矩としてきた制度自体が揺れ動き始めた。

依存してきた私達は、それに向けて特化してきた姿のまま、いままでとは全く異なる荒野へ、いきなり放り出されるような恐れが出てきた。さらに不安は募る。

これから、いままでの「ルール順守」だけでは通じない状況が、次々と起こるのではないか。

私たちはどうやれば生きのびていけるのだろうか。

ルールの外にあって、ずっと変わらないことに注目することではないか。

それを学ぶ方法のひとつが、自然や人間本来の心身に沿って形成されてきた、土着のマイナー武術だ。

その規矩は、他から与えられたり、時代とともに変化するようなものではなく、

太古から人間の身の回りを、淡々と流れている、素朴で大地に根を生やしたように強い、ことわりをベースにしている。特定の資格や用具がなくとも、誰でも直接アクセスできる。

すなわち、家伝剣術伝書が説くように、他に求めて追加していく強さではなく、いかに生まれつき備わっている本来の心身をきちんと立てていけるかということではないか。

その前例として、戦国末期に登場した剣豪、剣聖達の人生があろう。

彼らの多くは、戦国乱世のなか、所属していた集団は敗れ、必ずしも社会的な勝者となったわけではない。

しかし、剣を通じて発見した心身世界は、次々と社会的勝者が交替していくなか、数百年にわたって変わることなく、無数の人々へ影響を与え続けてきた普遍的な存在となった。

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