刀はそれを帯びる者、操る者の心身を整えてくれる。
何も「人間形成の道である」という近代の観念論ではない。それは私も実感がない。
そうではない。拙い我が稽古を通じた肉体の実感そのものだ。
おそらくこれは、やってみればどなたでも、すぐに感じられることではないか。
例えば武技としては、家伝剣術「卜傳流剣術」の一本目「生々剣」の稽古がまさにそれだ。
剣と一体化することで整った我が心身が、相手が上段から激しく斬り下してくるなかでも、涼やかに通り抜けていくことを確かに実感できる。
もうひとつは帯刀して歩き回ること。
特に抜刀せずとも、鞘に納まったまま刀を扱い、帯びて動ていると、自ずと立ち上がってくる身体がある。
このことは、抜いてから刀を「いかに振り回そうか」ばかり重視している近現代武道が忘れていることか。
例えば、ふだんの現代人の我々は、動きやすい身なりで自由に闊歩している
だが実のところ、その歩き方は千差万別だ。自分ではバランスよく歩いているつもりでも、他人から見れば非常に個性豊か、不自然な歩き方に見えることも少なくない。
さらに、ときどき所在のなさを感じて、身の置き場がわからず、まごついてしまう場面がある。間がもたないとタバコに頼る方も少なくない。
ところが、刀剣ツアー等で、起伏に富む野外、すなわち弘前城内を帯刀したまま、この刀がいつでも発動できるよう、その空間から上下左右あまりぶれないように歩いているうちに、そして狭い室内でも周囲に刀をぶつけないようにふるまっていると、
そのとき、その場ごとに、どう動くべきか、自ずと感じられていく、いや頭がわからなくとも導かれていく。
己の心身が整って爽やかに流れていくのだ。
おそらく往時の武士達は、常住坐臥、刀を規矩として、立ち、歩き、座り…しているうちに、自ずと心身の奥底に、規矩が養われていたのだろう。
その土台のうえに武技があったのだ
だがら、祖父の頃までのように、言葉が少ない無言の稽古でも、必要な理合が埋め込まれて伝承できたのではないか。
それが、生活様式が激変した近代以降の稽古で失われたのだろう。
半面、言語説明が多くなったのは、その欠落を補うためのことではないか。
その意味において、刀剣が本来帯びている特性や機能を知るためには、ガラスケースの向こう、第三者の視覚だけでとらえるのは大変難しい気がする。
刀剣独特の構造は、人の身体とつながって様々に機能するなかから形成されてきた。
だからできれば、それを触り、持ち、一体化して動く等、生身の身体を通してみることも必要だろう。
いにしえの人々はみんなそうしていた。そのなかから刀剣観と己の心身の規矩が育った。
よって、まさに武の稽古は、刀剣そのものの本質的存在を、深く体感できる一番の近道ではないかと思う。
刀を媒体として、絶対に会えるはずがない、遥かいにしえの、代々の先師たちの心身と直接リンクできれば、私にとって幸甚の極みである。

おそらくそれは、刀剣だけではない。諸職にはそれぞれの道具があり、それと生身の身体が直接触れ、一体化することではじめて出現する地平がある。

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