〇定例稽古のお誘い

弘前藩で伝承されてきた卜傳流剣術、當田流棒術、林崎新夢想流居合、本覚克己流和

などの古流武術を中心に、心身を生き生きと豊かにしていく稽古を楽しみましょう。
ご関心のある方はどなたでも参加できます。初心者も歓迎いたします。
(小学校高学年以上、見学も可)。

  ・日 時:2017年2月4日(土)13時~15時
  ・会 場:北辰堂 - Wikipedia青森県弘前市長坂町37)

  (明治初期に、もと武士達や各流剣術師範たちが創立してから134年、

   青森県最古の武道場であり青森県最古の剣道場です。)

  ・参加費等:無料

その他
 ・動きやすい服装でお願いします。(室内、板の間の道場です。内履き等は不要です)
 ・木刀や帯類などの稽古道具がある方は持参ねがいます。
 ・シゴキ等はありません。各自の興味関心、体力に応じた稽古です。
 ・安全に充分留意した和やかな稽古ですが、もしもの際のケガ等は自己責任でお願いします。
                                 修武堂小山隆秀

家伝の卜傳流剣術「裏」四本目は玄妙だ。本当によくできているがよくわからない。

昨日の修武堂定例稽古では、家伝剣術大太刀「表」五本から「裏」五本を皆さんで一緒に稽古した。

その説明で、また私が間違えた。

先日以来、左肩を痛めたうえに、風邪でフラフラだったため、暗愚さが増していたようだ。

それでも、慣れ親しんだ稽古道具は、自分のココロとカラダを整えてくれる法器になる。

帰宅して、愛刀(真剣)を撫でまわしていたら、少し体調が治ってきた感じがある。

冷静になってから反省を始めた。

間違ったのは、裏の四本目だ。

不可解でいつも私を悩ませてきた形である。

中段と斜の構えで互いに間合いを詰めた後、互いに鏡像のように片方の肩に剣を担ぐやいなや、同時に同じ太刀筋上で袈裟に斬り合うのだ。

以前、人前で父とこれを演武した際、未熟な私の太刀筋も拍子も調子もすべて駄目だった。

勝負で「速さこそ大事だ」と考えるのは、実地経験が少ない初心か素人の発想である。

この形についても、剣道初心者のように、ひたすら相手より速く打ち込もうとするだけでは全く通用しない。

やってみれば、素面素小手だから、互いに無事ではいられないことを痛感するだろう。

そのときは、空中で互いの木剣が折れるかにように激しく絡みあい、形が成立せずに恥をかいた。もう少しで互いに木刀の直撃をくらうところだった。

それ以来、またやったら必ず相打ちとなる。いくら木刀でもこんな危ない技などありえない、と考えてしまった。

ところがスッキリしないので、亡き祖父が遺した口伝書を読み直した。

やはり、本日の私の説明は少し間違っていた。

しかしやはり、この通りやったら相打ちではないか。

実際にもう一度試してみよう。

息子を相手に、木刀同士、袋竹刀同士でやってみた。

なんと不思議に形の要求どおり、技が成立するではないか。

同じ軌跡上で斬り結んだ太刀同士だが、打太刀の刀だけが反れ、我の刀は相手の首筋へスルリと入っていく。

私が間違って紹介した遣い方の場合、相手の力を直接受け止めてしまい衝撃をくらうが、この家伝本来の遣い方ならば、相手の力を受け流してしまうから負担が少ない。

それにしても、さらに他の要素も同時に関連しているようなので、何度かやって考えてみたが、なんで成立するのかまだ分析できていない。

たとえ私がアタマで考えて納得できなくとも、実際の技では、成立することがある、ということだ。

いや、へたに分析してしまうと技が壊れてしまいそうで怖い。むず痒いままでそっとしておいた方がいいのかもしれない。

ともかく、このような理を発見した先人達の知恵にうなってしまう。

修武堂の定例稽古は、会費も月謝もすべて無料。経験や武種も不問、どなたでも参加でき「来る者は拒まず去る者は追わず」で十数年やってきた。

だから、名前も知らない方と剣を交えていることが少なくない。

なぜ門戸を開いているのか。

その理由は、30歳の頃、ある歴史上の宗教者の修行に深く感銘したからだ。

敷居を高くして「廟堂」に籠るよりも「この教えは果たして本当なのか」実社会に問うこと。

世の中の様々な方々にもまれるなか、実地で家伝の卜傳流剣術を再検証し、磨き上げる「辻説法」をやるべきだ、と決意したからだ。

そのことで、前近代の遺産である家伝剣術が、いまの時代の課題とも斬り結んでいきたい。

そしてなぜ無料なのか。

まずは、代々の父祖達が、家伝剣術は「金もうけではない」と厳命してきたからだ。

二番目には私の感謝だ。

つまり、参加される方々は、貴重な各自の時間、この世にひとつしかない己の心身を総動員したうえで、この拙い私の稽古にお付き合いしてくれているだ。

逆に私がお礼をしなくてはならないのかもしれない。

だからいまでも、稽古環境で不足なものがあれば、なるべく私が準備している。

全く無謀なボランティアだ、とあきれられることも多い。

最後に、淡々と生活のなかで継承してきた習俗や文化が、金銭に関わった場合、ともすればその質が、急速に変容してしまう場合があるからだ。

例えばかつては、家や地域ごとの伝承があり、生活のなか、自分で選ぶ前に、物心ついたときにはその技芸を覚えていた、という環境があった。

現在では、そのような環境は稀であり、我々は長じてから、自分で選んだ「習い事」へいく。

だが、それらの多くは「習い事」としてパッケージ化され、経済活動用の資源として整理された姿になっている。

フランチャイズ、ブロイラーで育てた万人向けだから、それぞれ異なる私たち個々の地域や暮らしの特性とはつながらない、別個の存在である。

例えば、我々は日常、食事で箸を自然に使っている。

しかし、その箸遣いを、有料で他人に見せたり、教える技芸にした場合、その遣い方は本来の要請、用途からは、全く別の形態へと変容していくことは想像に難くない。

このような問題は指導者にもよるだろう。もちろん、バランスよく運営されている師範も少なくないようだ。

経営センスが全く無い私の場合だから、技芸そのものの内容を優先していきたい。

すなわち、少なくとも修武堂で稽古している古い武術群は、なるべく資源化されたり、パッケージ化されない「野生種」のまま、稽古を楽しみ、深めていきたいのだ。

案外そのような稽古は、首都圏よりも、この地方だからこそ可能なのではないかと考えている。

精選したり、特化する以前の、多様な要素と可能性をはらむ「野生種」の方が、どんな新しい心身を派生するきっかけをくれるかわからない面白さがあるはずだ。