■
修武堂の定例稽古は、会費も月謝もすべて無料。経験や武種も不問、どなたでも参加でき「来る者は拒まず去る者は追わず」で十数年やってきた。
だから、名前も知らない方と剣を交えていることが少なくない。
なぜ門戸を開いているのか。
その理由は、30歳の頃、ある歴史上の宗教者の修行に深く感銘したからだ。
敷居を高くして「廟堂」に籠るよりも「この教えは果たして本当なのか」実社会に問うこと。
世の中の様々な方々にもまれるなか、実地で家伝の卜傳流剣術を再検証し、磨き上げる「辻説法」をやるべきだ、と決意したからだ。
そのことで、前近代の遺産である家伝剣術が、いまの時代の課題とも斬り結んでいきたい。
そしてなぜ無料なのか。
まずは、代々の父祖達が、家伝剣術は「金もうけではない」と厳命してきたからだ。
二番目には私の感謝だ。
つまり、参加される方々は、貴重な各自の時間、この世にひとつしかない己の心身を総動員したうえで、この拙い私の稽古にお付き合いしてくれているだ。
逆に私がお礼をしなくてはならないのかもしれない。
だからいまでも、稽古環境で不足なものがあれば、なるべく私が準備している。
全く無謀なボランティアだ、とあきれられることも多い。
最後に、淡々と生活のなかで継承してきた習俗や文化が、金銭に関わった場合、ともすればその質が、急速に変容してしまう場合があるからだ。
例えばかつては、家や地域ごとの伝承があり、生活のなか、自分で選ぶ前に、物心ついたときにはその技芸を覚えていた、という環境があった。
現在では、そのような環境は稀であり、我々は長じてから、自分で選んだ「習い事」へいく。
だが、それらの多くは「習い事」としてパッケージ化され、経済活動用の資源として整理された姿になっている。
フランチャイズ、ブロイラーで育てた万人向けだから、それぞれ異なる私たち個々の地域や暮らしの特性とはつながらない、別個の存在である。
例えば、我々は日常、食事で箸を自然に使っている。
しかし、その箸遣いを、有料で他人に見せたり、教える技芸にした場合、その遣い方は本来の要請、用途からは、全く別の形態へと変容していくことは想像に難くない。
このような問題は指導者にもよるだろう。もちろん、バランスよく運営されている師範も少なくないようだ。
経営センスが全く無い私の場合だから、技芸そのものの内容を優先していきたい。
すなわち、少なくとも修武堂で稽古している古い武術群は、なるべく資源化されたり、パッケージ化されない「野生種」のまま、稽古を楽しみ、深めていきたいのだ。
案外そのような稽古は、首都圏よりも、この地方だからこそ可能なのではないかと考えている。
精選したり、特化する以前の、多様な要素と可能性をはらむ「野生種」の方が、どんな新しい心身を派生するきっかけをくれるかわからない面白さがあるはずだ。