JR新青森駅で、正月奉納演武のイベントをやった。みなさん素晴らしい演武でいい初稽古となった。

 雑然とした人混みと騒音のなかで技を使うことは集中するのが難しく、嫌がる師範もいられるが、それは違うのではないか。なぜならば武そのものの性質が、静謐な神事だけでなく、混乱の非日常で要求される存在だからだ。

 整った環境でしか使えないのでは、競技スポーツか高尚なアートと同じことになり、混沌とした現実を生きていく智慧とはならないのではないか。

 一方で、身近な武道師範のなかには「見せ物だ」と批判する向きもあるようだ。

 しかしそれは自分で調べたり、考えたことがなく、実際の歴史を知らないからではないか。

 なぜならば武は、前近代において、表演することで邪鬼を払う神事や芸能ともつながっていたし、近代以降、これほど剣道が普及した嚆矢は、明治初期の撃剣興行という見せ物、ショーだったのだから面白い。

 明治初頭の青森県弘前市にも、竹刀稽古を見せ物とする撃剣興行の「仙台設立ト唱ヘ男女剣術者数人」が元寺町「柾木座」へ来て、木戸銭を取り、女性の演じる長刀・棒・鎌の武術や、組太刀及び「男ハ一途面仕合」の飛び入りも受付けて、数千人の観客を集めた。一座の興業はかなり評判を呼び、毎年来弘したので「是ヨリ撃剣的流行」して、警察官まで竹刀剣道の稽古を始めたという記録がある。

 当日はそれらを、旧藩剣術家達がこれを批判していたようだから、今は立場が入れ替わったような可笑しさだ。

 現代は、古武術も武道も人口が激減し、時代の急変のなかで風前の灯だ。ただふんぞり返っているばかりではなく、少しでもできることをやり、関心を持つ方がいれば導くのが法灯を守る当代修行者の務めであろう。

 また我々の演武には、仙台から、長年にわたり林崎居合の研究稽古をされている方がおいでになり、久しぶりに情報交換ができ、大変勉強になった。

 特に林崎系居合の初発刀については共感した。数年前から私自身は、個人の体感と和歌の表現から、水平ではなく袈裟斬りではないかと推測し、お仲間には「これは私見です」と自信なさげに提案したきた。しかし同氏によると、全国各地の史料分析からも同様のことが指摘できそうだというご教示をいただいた。膝を打つとともになんだかホッとした。

 もしかすると私のような拙い稽古でも、形が問いかけてくること、己の心身の声に、素直に耳を澄ましていけば、それほど大きく道を誤ることなく、歩んでいけるのかもしれない。

 どだい、現在のような情報社会ではない前近代には、中央講習会などなくとも、わずかな情報だけを大事に、ほぼ独立独歩のように己の武技を花開かせていった先人たちが全国各地にいたのではないか。

 また無刀氏からは、甲冑を着た組太刀稽古についても感想をいただき、さらに研究を深める必要性を再認識した。いま私案していることは、甲冑の透間やつなぎ目の弱い部分を狙う技法も有効だろうが、自他ともに変化し続ける戦いの場では、限られた部分のみを的確にヒットすることばかりは望めないだろうことである。

 ならばどうするか。家伝剣術伝書には「カブトをも打ち割る」太刀筋を目指して稽古せよとある。つまり接触した瞬間、甲冑で覆われていようといまいと、相手の構えや体勢が崩れるような重さ、威力を与えるような太刀筋が必要なのだろう。

 また伝書には何々の形は甲冑武者相手にも遣えるとあるから、それらを手がかりに研鑽を深めたい。