T氏のお世話で、小学生の息子にちょうどいい長さの模擬刀をプレゼントした。

いままで大人用の刀や脇差で稽古させていたが、やはり体にあった長さと重さの刀が必要だ。

ときどき、それを抜かせて、力まかせでブンブン振らせてみたり、柔らかく刀の重さを感じ、全身を連れてもらっていくような振り方など、いろんな扱い方を体験させて、刀そのものの特性に慣れるように。

それを眺めながら、ふと、子どもでも、剣を操れば、油断ならない存在に化身することに改めて気づいた。

彼が何気なく模擬刀で素振りしているその手元に、素面のまま、竹刀剣道のように真っ向から、先を競って「捨てきって」小手や面へ飛び込むことが、なんと危うく、度胸試しのように、全く無謀な行為かと、ひしひしと感じた。

いくら気迫で攻めようが、どうにもならないことがある。おそらく両者ともに無事ではいられまい。それではやはり、命をかけうる刀法、剣の理合とはいえない。

宮本武蔵のみならず、竹刀稽古を推奨した千葉周作でさえ、そればかりでは実際の戦いで大きな錯誤をすると言っているが、その通りなのだろう。

だからといって現代に残る古流のすべてが、往時の剣の理合を認識して稽古できているとは限らない。なかには、せっかく素晴らしい所作として、その理合が埋め込まれているのに、それに気づかずに、形骸化した手順だけ守ったり、ポイントがズレてしまっている場合も少なくない。

案外、はたから眺めている第三者が気付けたりしていることもある。私ごとき拙いレベルでも、他流派の演武を拝見して「あの所作は本当は…」と、大きなヒントに気づかされることが少なくない。

ともかく、本当に我々日本人は、何百年と醸成してきた緻密な剣の身体操法を忘れ、かなり異なる形態として、勘違いしてしまっているのではないかなあ。自省する。