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現在の学校剣道の現場に触れることがあった。
青少年たちの真摯ながんばりには、胸うたれるものがあった。
もちろん素晴らしい指導者もいる。
しかし何人かの指導者の方法や振る舞い、志向には、少々違和感を禁じえなかった。
確かに、剣道着と袴、防具に身を包み、竹刀を構えて「日本の伝統武道」を標榜し、子供たちにもそう熱弁を振るっているが、
その指向は、言動は、日本の文化というより、近代に人工的に作られた「伝統」、いやそれよりかなり西欧スポーツ化、近代の軍隊化しているケースを感じてしまった。
もちろん、昭和末期生まれの私の稽古風景だって、かつての武士たちから見れば、ライフスタイルの変容は大きいのだろう。
それでも、その頃に比べて、もっと過激に変容している。
幼い頃、稽古の場には、古武士のような先生方があちらこちらにいた。
無口で教授方法は素朴で背中で教える、そしてそれぞれ、剣以外の教養や人生観が醸し出されている風格を感じた。武士だった。
それが薄らいでしまい、いまでは、わかりやすい近代体育コーチ、ひたすらしごくだけの軍隊曹長のような指導者が増えた。
すると子供たちに教えることも、そのような内容と化している気がしてならない。
例えば礼法とは、その場や相手に応じて細やかに変化させて用いるべきコミュニケーションの智慧と技法だ。
だからこそ、古来から、礼は武にもつながるとされてきた。
しかし近年は「武道では礼儀が必要だ」と連呼するだけで、その具体的なつながりがわからず、ただ大声を出して大仰なお辞儀をすれば礼儀だと錯覚している。
例えば、公共の場であるホテルフロントや体育館受付前を大勢で整列して占拠し、周囲のお客達にかまわず、静寂さを切り裂いて一同で大声で「ありがとうございました!」と自己陶酔のお辞儀をすること。それが礼儀であると子供たちに教えてしまっている。
これは、剣技を学んだ武士達のふるまいではない。近代軍隊か圧力団体か。初めて目撃したときにはその行動が奇妙な異国のふるまいのように思えて、驚いた。
剣技でいえば、相手の状況や場を無視して、自分勝手に打ち込んでいく無謀さ、横暴さだ。
また、「剣の理合だ」「心が大事だ」などと説いても、術理においても心法においても、その内容には全く武特有の教えがなく、普通の競技スポーツと同じなのだ。
おそらく、武道を長く熱心に稽古されてきても、先人たちが蓄積してきた伝書類、武の哲学や基本図書の類を全く読まれておらず、
連盟による伝達講習や広報誌、ありふれた市井の知識の組み合わせをメインとして、そのほかの可能性については考えることも工夫することもない場合が多いよう拝察した。
術理においてもしかり。中近世以来伝承されてきた理合や技法が、近現代以降、ぷっつりと断たれてしまっているか、まるっきり変容してしまっている場合が多い気がする。
なんともったいないことか。「伝統」が泣いているだろう。
つまり、剣の稽古のなかで、身体を通じて、己の在り様、世界とのつながり、成り立ちを探究していくことよりも、競技的コツ、定められた様式とルールを疑うことなく、与えられた「正しさ」をいかに遵守するかばかりを競っている。
そして指導者が、そのスタイルを「日本古来の武道のやり方」だと信じきり逸脱を許さない。
手順を守るだけの「形」を否定して生まれた竹刀稽古法が、いまでは生徒達を鋳型のような固定した「形」にはめ込む強固な雰囲気を作ってしまった。
おそらく、そのような指導法で育った剣士たちの多くは、競技世界より広く豊かな世界を知ることなく、さらに大きなものの前には、従順すぎて無力な一兵卒になってしまう危険性を感じてならない。
そのような部活の習俗が、世代から世代へと継がれていっている。
幕末維新期を動かした武士達の多くは、武芸道場に集い、様々なものと交流しながら、新しい社会を開く、新しい知見を発見していった。
しかし現在のような、与えられた「正しさ」からはみ出さない稽古環境では、そのようなムーブメントは困難となっているのではないか。
一番の問題は、己の稽古が、いったい何に向かっているかということだ。
定められたルール内の競技なのか。それとも混沌とした目の前の現実世界なのか。
「試合の選手として、使えるかどうか。勝てなくとも引き分けに持ち込めるタイプなら採用しよう」という指導者は「生徒たちは監督の管理下で動くべき将棋のコマだ」と考えている。
すると生徒も父兄たちも監督へとすり寄っていく。
集団スポーツでは常識なのだろう。だがそれは武士達が生んだ技芸ではない。近代軍隊だ。
ひとりひとり己の心身を磨くための剣をやってきた私にとってその思考は、個々の尊厳をバカにしているように思えてしまう。
つまり、同じ戦士でも、自主自律の「武士」と、命令で動く他律集団行動の「兵士」は違う。
これからどうすればいいのか、社会全体がわからなくなっているときに、どちらのタイプが増えることが、新しい打開策の発見を生むだろうか。
以上は一部のケースであり、素晴らしい指導者もおられるからその方々に学びたいものだ。
例えば、わが修武堂の稽古には確たる目的がない。それぞれに任されている。
試合勝利に向けて選手を選別し、ランク付けなどしない。
有力選手には集中して指導し、初心者は捨てておく、ようなことはしない。
入門者には指定の同じ稽古着、道具だけを次々と買わせ、段位をとるたび高額なお金をとるなど囲い込でいくようなことはしたくない。
現代人からすれば、当会は、なんと権威の無い主宰者か(その通りです)、だらしないことか、という批判もあるだろう。
しかし、そのユルさが、武の世界を狭く小さいものとしないこと、技も心身も様々な発見が生まれてきやすいこと、混迷を越えていく新しい智慧を生んでいくきっかけにつながると考えている。