家伝剣術や林崎新夢想流居合の稽古は、本当によく日常生活につながるなあ。

10代、20代の頃は、ガンガン体力にまかせて、猛稽古をするほど「生きている実感」があった。それが稽古だと確信していた。それをやらないと自分の存在が希薄になってしまうような焦りまであった。

ところが中年になると、ガンガンやる稽古では翌日まで疲労が残るようになり、それほど上手くならない代わりに、心身がますます固く、強情になっていく気がしてきた。

疲れと傷みをこらえて仕事を頑張るうちに、稽古の喜び、意欲が尽きていく。情けなや。

昔、有名なプロレスラーが言っていた。根性と努力だけでは三年もたないと。根性がない私は、深く深くうなずきたくなったものだ…?

ところがここ数年の家伝剣術と林崎新夢想流居合の稽古は、これと全く異質である。

お相手がいない日でも、たった一人、静かに己の身体と向き合い、模索し、調整していくような稽古だ。

本当に静かな動きだが、課題がたくさん湧いてくる。

確かに若い頃の剣道の地稽古、走り込み、素振り、筋トレなどのキツイ稽古もたくさんのことを教えてくれた。私のなかで確かに活きている。

しかし古流の稽古も、それとはまた少し違う妙味があるのだ。

より選択の幅が広がっていく。発想が湧いてくる。

闘志ばかりではない、己の内側の様々な心身の表情に気づかされていくのだ。

それは日常における物事の向き合い方、私のクセにもつながっていることが思い知らされる。

あれこれ夢中に試してやっていると、案外、脳が疲れる、体も芯まで深く疲れる。

ところがその疲れは翌日まで残らない。

逆に日常生活でのふるまいがクリアに軽快になっていることに気づく。

今日も、博物館の肉体労働だったが、かなり多彩な動きが楽しめた。

するとまた稽古したくなる。

いや、稽古というより工夫、新たな自分を発見しようとする研究に近い。

この楽しみは、ときと場所を選ばず費用も全くかからないが、本当に終わりがない。

このような身体文化は、現代ではいつの間にか常識となった、中央が全国各所の支部と選手を常に制御する官僚制スポーツまたは武道組織の方法からは大きくずれており、笑うべき方法と思われよう。

しかしそれより以前、往時の武士たちも、必ずしも師匠や環境に恵まれずとも、まずは目の前の現実を生きねばならないから、

それぞれの居住地でそれぞれの探究をしながら、個々の豊かな心身の哲学を拓いていったのではないかと夢想している。