林崎新夢想流居合。

三尺三寸の長大な刀で稽古した後、常寸刀に持ち替えて家伝剣術をやる。

不思議と自分が変わっているようだ。

いつもの形を遣っても、全く違う姿が出てきたり、いままで気づかなかったことが出てくる。

 

ところで、愚鈍な私は、いくら懸命に稽古しても、公開演武になると稽古と違う動きをしてしまう。

いままでは「なんと未熟者か」と悩んだが、最近は開き直ってきた。

それもいいのだ。

先人達が遺してくれた形は、固定された鋳型ではない。そこから様々な変化を汲みだしていくためのヒントにすぎない。

だから、いくらカタチが定められていようとも、互いに生きて変化している彼我が対峙するなかで、変化しているそのときと場に適応することこそ最優先だ。

当流の最大の命題が、いかに変化の理を知ることであり、それを体認できたものが剣の聖であるという。

だから、変化を拒否した武は、剣は、生命を失うに等しい。

生きている形は、変化して当然なのではないか。おそらく全国普及前の前近代の形も、そのような存在だったのではないだろうか。

 

話を戻そう。

なぜ刀と心身をつなげると、いろんな動きが発生してくるのか。

もしかすると、最初に刀を持って立った瞬間の互いのズレが動きの端緒となり、刀と心身とのバランス、円相(当流では「満月」というが)を目指す動きが生じ、それが、術者の心身を誘導していくのではないか。

不安定なものが、自ずとバランスをとろうとするのは、天地万物に共通することだ。私たちも武も剣も、その理から逃れられない。ならばそれに応じた方がチカラを得る。

しかしそれが、独りよがりの円相、満月で完結するのではなく、

武は必ず相手があることだから、生きて変化し、対峙してくる敵相手にも有効なのかどうか、という疑義がある。

敵との関係性において円相か、満月か、という課題がある。

(そのことについて、開祖は「十」と仏教の「卍(まんじ)」の字を使って説明している。また、弘前藩の柔術、本覚克己流和では「位」とは己で意識して作るものではなく、敵と対峙するなかで、敵が教えてくれる、という教えもある)

よってときどき、剣道部の息子相手に袋竹刀をかまえて、実験してみている。

まだ見えてはこないが、ときおり、遠間から本間へと入っていくときに、相手が判断に戸惑い、一瞬、攻防がフリーズするような現象が起こることがある。

なんだろうと意識すると失敗する。本当になんだろう。

 

さて明日は、修武堂恒例の野外抜刀稽古&BBQ大会だ。

毎年夏か秋に一回、我が実家庭の雑木林のなかで、みんなで数十本の巻いた畳表を、真剣で次々と斬る稽古をして刀法を工夫するのだ。

協会や大会とは違って、斬り方は全く自由。安全性さえ確保できればよい。

野外の不整地、かつ歩きながら、動きながら、ふだんの剣術や居合、棒術稽古で学んでいる太刀筋でいかに斬れるかを試す。

ときどき畳のなかに竹を仕込んだものも斬ったり、外崎源人氏は何本もまとめて斬る土壇斬りや鉄棒斬りも披露する。

十数名で斬るが、あまりに畳の本数が多くて、途中で嫌になるほど斬る。

だから、一番大変なのが、事前準備と事後の片づけなのである。

畳表を巻いて、隣の川に一昼夜沈めておく作業と、斬った後のあと片付けは本当に面倒だ。

数十本をまとめて川へ沈めれば、二、三艘のイカダのような大きさになり、作業者ごと浮かされて流されそうになるし、斬った後の畳のゴミは、軽トラック一台分となる。

でもその後、夜の闇のなか、炭火のほのかな明かりと、木立の影から見える月を見ながら食べる焼肉と酒は、なんとも格別である。

まるで縄文時代の三内丸山人になったみたいだ。

楽しみだ。さあ、これから準備だ。

 

(お知らせ)

来る10月8日(土)、山形県村山市

日本武道文化研究所「全国古流武術フォーラム2016-林崎甚助の居合を探るII」開催(http://hayashizakishinmusoryu.jimdo.com/event/event3/

一緒に、日本各地の林崎流系統の居合の歴史や実技を楽しく学びましょう。

参加者大募集中です。