近代に創られた各分野の「伝統」。

それがたったひとつの「正しさ」として他者を評価、睥睨している。

先日子どもが、剣道部稽古ノートに、武術・武道のバイブル「天狗芸術論」を引用した。

すると有段者のコメントは、誤読されたうえでの完全否定だった。

ふだん「伝統」の名のもとに指導が行われているから、これは意外だった。

もしかすると、あまり近世の名著をご存じなかったのかもしれない。

こんどは、現代剣道テキスト通りのこと、すなわち近代以降に定着した、竹刀特有の技法観を書いていったら、マルをもらった。

私は複雑な思いがした。やはり同じ剣技でも、違う存在なのかもしれない。

これは一例にすぎないが、「伝統」を大きく標榜する稽古現場において、実は近世から近代へ伝統、伝承が、大きく変容したり、断絶していることは少なくない。

「これこそ伝統技法である」と現代の私が聞いても首をかしげる解説も生まれている。

それはここだけではないようだ。全国各地で同じような定型フレーズが流行って連呼され、異種武道との交流をあまりしないから「我が武道こそ最強」と共同幻想が強化されていく。

もちろん剣技は、中近世からそれぞれ変化してきた。「古流」といっても歴史変化の産物だ。

しかし、近代初頭の変化は少々、性質が異なる。

全国組織を作って計画的に、理念や技法を整理、改変し、公的機関を通じて全国普及した。

これは日本列島の武の、剣の歴史上、初めての経験だったといえよう。

それが現在、我々の「伝統」イメージとなって定着している。

ものごとが、時代で変化していくことは必然であり、誰にも止められない。

近代発の「伝統」「正しさ」が、社会で求められ、多くの幸をもたらしてきたことも事実だ。

だが「伝統」が、たったひとつになると、わたしたちは、それ以外を認識できなくなる。

近代の「伝統」より古い姿で、「伝統」観念に反するものを否定するようになった。

現在のふるさとの状況だ。寂しいものだ。

誰も気づかないしやらない。だからわたしはもっとやらなくては、と勝手に自負している。

せっかく熟成してきた、様々な伝承文化を亡失して、平準化してしまうのはもったいない。

なにより「正しさ」が「伝統」がひとつではなく、多様な展開があった歴史的事実に、救われる人々も多いのではないか。

3.11で学んだひとつが、中央に依存するばかりではなく、個々の地域が自分が、少しでも自主自立し、固有の暮らしを熟成しておかなくては、大災厄では生き残れない、ということだった。

その気概が、ふるさとを、この地の武を、剣を、我々を、豊かにしていくはずだ。