武技には、無限の変化がある。

ならばなぜ、武士達は、これほどシンプルな形しか残さなかったのか。

いや、我々自身が、形が生まれたときのその有り様を、向き合い方を見失っているのだ。

全国武者修行で無敗を誇った、17世紀弘前藩の剣豪浅利伊兵衛。

我が父祖小山次郎太夫英貞は、林崎新夢想流居合において、彼の孫弟子にあたる。

正徳5年(1715)、浅利は、林崎新夢想流居合の「高上極位の巻」を授与された。

「そもそもこの兵術は、自己黙然として、進むことなく、退くことなく、左右またこのごとし、ただこれ源に逢い、剣刃上に至り、氷陵上に走る。生死岸頭において大自在を得、六道四生に向かいて空なり」と記されている。

この記述は単なる精神論ではない。

前後左右に動けない密接した状態で、相手が小刀で突いてくるという、全くぬきさしならない場において、我は三尺三寸の大刀で斬り止め、いかに自在を得ていくかという、林崎新夢想流居合の形稽古のありよう、そのものを具体的に描写しているではないか。

(生死の場で自在を得れば、日々の暮らしの無明からも解き放たれるといい。家伝剣術の教えとも似ているなあ)

そして浅利は、延宝8年(1680)に、夢のなかで老翁から、懸待一致の「一つの太刀」を授かったと書き記している。

別の伝書では、様々な武具の操法を習おうとも、この懸待一致が体得されなければ、意味がないと述べている。

前にも述べた。

密着した間合いによる林崎新夢想流居合のあまりに不可思議な稽古法を、即物的な戦法ととらえたり、長い刀を抜く身体操法のためだと解釈しては、武技としては不足である。ましてや「遠い間合いから抜けばいいのに」では、この形のメッセージがわからなくなる。

そうではない。林崎の居合が、同じように狭い空間で長い刀を抜く「曲芸」とは、なぜ根本的に異なるのか。

おそらく、密着した状態の扶据から相手の小刀を斬り止める形は、よけいな要素を、ことごとくそぎ落として純化し、生死の場での懸待一致に注目せざるをえない、それを体認せざるをえないように導く、よくよく工夫された稽古法なのではないか。

稽古でいろんな方法があると、人は幻惑され迷う。敵と攻防するとき、構えの変化、間合いの詰め方、虚実、技の種類など、いろんな要素があるが、それらの枝葉の組み合わせに夢中になるがゆえに、見失うものがある。そのうち「技のデパート」にはなったが、どれも浅瀬で終わることも多い。

だが、人間の生涯には限界があり、無限のバリエーションすべてを味わえる時間はないし、その必要もない。

よって、枝葉末節をどんどんそぎ落としていき、もうこのほかに選べない、できない、迷えない、となったときにこそ、一挙一統足そのものを、より深く見つめることが可能となる。それが稽古のありがたさか。

そのとき初めて、もろもろの変化を通底していた、大事な何かが浮上してくる。

あたかも「おはようございます」という、たったひとつの言葉だけで、千変万化する無数の異なるご縁と場に対応している私たちのように。

普遍的な理を通して、広い世界の森羅万象の変化を知っていくことが小径であろう。

しかもその制限された方法、形が、己のひとりよがりではなく、実際に斬り合いの場を体験してきた無数の人々の集合智から与えられたものである、

という強い信仰にも似た確信が、拙いわたしを導く、大きな機能を持っているのではないか。