弘前公園のなかの護国神社の神楽殿には、近代の武芸奉納額がある。

いずれも招魂社時代に奉納されたものか。

ひとつは、明治24年7月10日の奉納額で、當田流剣術山崎勘一郎の門人、高山龍助が、16名の打方を相手に、天保15年5月24日から26日にかけて昼夜三日間、一万本の組太刀をやったことを記念したものだ。

もうひとつは、明治22年5月18日、日置流竹林派射術、塚原卜傳流剣術、林崎神夢想流居合、宝蔵院流十文字槍術などを修めていた小田桐友平師範が、それらの武具や伝書類を貼り付け、各流の師範や門弟達を集めて作ったものだ。

幅が4メートル位もある巨大な奉納額である。

(残念ながら、貼り付けていた武具や伝書類はすべて失われている。)

そこには私の先祖、小山百蔵と英一親子も、卜傳流剣術および林崎神夢想流居合の打方(師役)として記されている。

この小田桐師範は、幕末から明治にかけて活躍した弘前藩の武芸師範だ。

我が家伝剣術の高弟であり、私の祖父は長じてから、この方の息子から、家伝剣術のおさらいをさせていただいた大恩人である。

また、笹森順造師範のエッセイによると、小田桐師範は、明治期になっても髷を落とさなかったといい、我が道場北辰堂で、扇子を小太刀代わりに、後進へ林崎新夢想流居合の稽古を付けていたという。

そうなのだ。このエピソードは大事なことを教えてくれている。

この林崎新夢想流居合とは、ただ長い刀を振り回せばいいのではない。それは誰でもできる簡単な稽古だが、流儀が目指す本意とは少々違う。

変えてはいけない稽古の大前提とは、開祖林崎甚助の逸話どおりに、近接して目前から突いてくる敵の九寸五分の短刀を、我はいかに三尺三寸の大刀で斬り止められるか、ということだ。

それを第一の稽古眼目としているのだ。

すなわち稽古で、三尺三寸を遣う仕太刀は、常に打太刀の九寸五分の短刀が届く射程内、近間のなかで、すべての技を遣わなくてはならないのだ。

だからこそ小田桐師範も短い扇子で稽古をつけたのだ。

そこでいかに三尺三寸側が居着かずに、心身の自由自在を得るのかが稽古の眼目なのだ。

だからこそ、この流儀でしか獲得できない理合があるのではないか。

よって、無理だからと、この「三尺三寸側は常に、相手の九寸五分の短刀の間合いのなかで動く」という稽古の規矩をはずしてしまい、

互いに自由に動けるような遠い間合いをとり、短刀が届かなくなった打太刀側が、九寸五分より長い刀に変えて間に合わせてみたり、さらに届かないからと、打太刀が前方へダイビングしながら突こうとするなど、してはならない。

そのように、先人達が遺した規矩を手放してしまったとたん、林崎新夢想流居合の形群はすべて、上達へと導く機能を失って崩壊し、単なる奇異な運動へと堕すことだろう。

私自身、貴重な教えをラクな方向へと壊していないか、よくよく自省していきたい。