f:id:bokuden1969:20160922160200j:plain

林崎新夢想流居合は、弘前藩のサムライ共通の居合だ。

藩内の當田流、小野派一刀流、本覚克己流和、卜傳流などの各流派がこの居合を併伝した。

幕末以降は、武士以外の人々も学んだから「津軽のスタンダード居合」といっていい。

しかし、そのあまりにクラシカルな姿は、現代の居合とはかなり異なるから、

「なぜ遠い間合いから抜き付けないのか?」というご質問をいただくことがある。

もっともだ。

しかしこの居合では、遠間から抜き合い斬り結ぶ稽古は、上級コースである。

初めはひたすら只管打坐。相手と密着した狭い空間内での抜刀を錬磨する。

多用する座法「趺踞(ふきょ)」は、両脚を地に組み伏せる姿で、現代人からすれば非常に窮屈だ。

(だが、このような座り方は、前近代の日本列島各地では、ありふれたしぐさだったようだ。

縄文から近世までの出土人骨の多くにも、日常的にしゃがんでいた痕跡が残るという。)

もとい。

この稽古では、両脚を封じたうえに、さらに真向かいに打太刀が座り、我が三尺三寸刀の柄をその左腕に当てて、右手を前へ出して抜くことさえ抑制される。

すると目前から九寸五分の小刀が襲ってくる。

すなわち最悪の状況で、いかに自由をえて、懸待一致(攻めと守りがひとつになること)、相手に応じられるか!?

という、戦国末期の開祖、林崎甚助の命題そのものの所作なのである。

ここから居合が生まれたともいう。柔と剣をつなぐものだともいう。

その古い形によって、現代の我々も林崎甚助の探求を追体験していくのだ。

あまりに難しい設定のため、お会いできた近代の修行者達のなかには、動きやすい普通の立ち膝に崩して稽古されていた方々もいた。

長刀を動きやすいするため広い間合をとったり、届かせるために九寸五分の短刀を長くしたり、打太刀の顔面に当て身を入れて、後ずさりさせて空間を空けてから抜く…

といった、いろんな解釈も生まれたようだ。それぞれの伝承には個性があっていい。

しかし、やりやすくするために、古伝の形の大命題を崩してしまえば、上達へ導いてくれる無形の規矩さえも失われてしまうだろう。

この古い居合は、我が三尺三寸の長刀の弱点である「近間」で行うのが骨格なのだ。

すなわち、近い間合いでは相手の九寸五分小刀が圧倒的優勢となる。その彼の制空圏内で稽古することが大前提ではないか。

そのなかで、いかに応じていくか、という錬磨を重ねていくなかでこそ、獲得されていく技法、身体があることを暗示しているのではないか。

追い詰められた龍が玉を吐くように。

最初は、卒倒するほど厳しい設定で、まるで絶壁の前に立ちすくむ思いがするだろう。

だが、伝承武芸のいいところは、いくら断崖絶壁、無人の荒野であろうとも

「前にここを通った人がいる」というレジェンドが、大いなる希望、勇気となることだ。

「わが父祖達が実際にやってきたのだから、できないはずがない」

という、根拠がない強い希望を胸に稽古を進めている。