以前は嫌いだった小泉元総理だが、今回は頷いてしまった。

TVコメンテイター達が、急に沈黙してしまうような社会的重圧のなか、大変な勇気だろう。

ともかく理屈が優り、複雑になりすぎるのも問題だ。対応力を失う。

目前で火が燃えていて、我が身が火傷しはじめても

「そんなことない。こちらの理屈に合わない」

と状況を認められず、やがては自縄自縛、逃げられなくなってしまう。

「これまで」にすがりたい最大の理由は、人間社会のカネの都合だ。

しかし忘れてはならないのは、我々が造ったモノは暴走し、すでに人の世界を超えてしまっているという明らかな事実だ。

それはもう人の都合、約束事だけでは太刀打ちできず、やがてはカネが立脚している人の世の土台さえも揺るがしかねない。

急場で生き残るためには「これまで」の世界観を全面転換することではないか。

スポーツ選手は講演会のたびに、判で押したように「強い心であきらめない」を連呼する。

根性が足りない私は恥じるしかない。しかし一方でそれは、少年時代のモットーならばいいが、大人向けには、何かもうひとつ欲しい気もする。

なぜ「強い心」「あきらめない」を連呼するか。

おそらくスポーツ世界は、ルールの縛りがあり、コーチの管理もあるから勝手はできない。決まりを最後まで遵守しきった者がご褒美をもらえる、という世界だからこそ、導き出された選手哲学なのか。学校の優等生もそうだ。それはそれで素晴らしい。

だが、私たちが日々暮らしているナマの現実世界はそうではない。

何がルールで、何が正しいのかわからない。予想外のことが頻発する混沌のなかを、コーチにも頼れず、無力な我ひとり、生きていかなくてはならない。

そんなときに、目標と方法を固定してしまい、状況判断より「我」を通すことに固執し、融通が利かないままいけば、周りもそればかり追い込んでしまえば、誰だろうと折れてしまうのではないか。または頑張る我に酔うばかりで堂々巡りも。

そうではなく、現実の世界では「本当にこのやり方、とらえ方でいいのか!?」という迷いこそ、自問自答こそ、融通無碍がないと、サバイバルしていけないのではないか。特にこれからは。

林崎新夢想流居合を研究稽古していると、その実技体系から体感を通じて滲み出てくるのは、おそらく「腰は据わるが、両脚は踏ん張らない」という身体の有りようを要求している気がしてならない。

それはやはり、変化が激しい戦乱を生き延びた人々の心身だったのだろう。

私も固定化しているなあ。

いままでの仕事は「すぐには社会にお役に立てないが、やがて未来のために…」という業種が多かった。

いまは、すぐに役立たなければならない実務、つまり実業ばかりをやっている。

即戦力であるダイナミズムと誇りはある。

迷わないが、毎回やっつけ仕事でそれ以上、深まらないし、展開も見えない。これではいつの間にか環境が変化するとともに、通用しない人間となってしまう。

やはり、一歩引いて遠望するというスタンスは、現状を打開するために、今の時代こそ必要不可欠だ。