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このたび、東京で弘前藩伝の林崎新夢想流居合(はやしざきしんむそうりゅういあい)の研究稽古会を開催する。
古武術是風会および日本武道文化研究所・居合文化研究会ご一同のお導きに深く感謝したい。
さて、いつもならば我が青森県は、全国的な武術・武道の講座をお招きするケースが多く、わたしたちは、近代以降、無数に続いてきた全国武道普及活動の恩恵に浴してきた。
よって、わたしたち青森県人にとっての武術・武道のイメージは、
「常に遠い聖地から教えいただくべきもの」であり、
「我らはそれに遥かに及ばない低いレベルにある」という意識が強い。私もだ。
「全国大会を目指すこと」、「回数券を買って首都圏の高名な先生へ通うこと」が重要だった。
それでも「全国レベルにはとうてい届かない…」と、みんなで悩んできた。
だが、よくよく考えてみた。
定められた規準のなかで優劣を競うシステムならば、どうしても、その規準を造った中枢が有利だ。
その周辺にいる地方は必ず出遅れることになる。
(特にその全国基準からすれば、地方の我が家伝剣術など全くの規格外だろう。)
しかし今回、当会がやろうとしているのは、その真逆の行為である。
近世以来、ずっと青森県内に根ざしてきた、ふるさと発の武道・武術について、首都圏で稽古会を開催する、というのはなんという暴挙か。
青森県の武道・武術にとってあまりに異例だ。もしかすると初の試みではないかいな…!?
たいした力量もない私がなんと大それたことか。
あまりの無名さに誰もこないぞと、我ながらあきれてしまう。
それでも、同志である外崎源人氏に多いに励まされ、準備をスタートしている。
そのうち、私の固定観念が氷解してきたようだ。
確かに「全国大会出場」は大変な難業、素晴らしい偉業だ。
しかしその背景にあって、オリンピックまでつながっている近代官僚制スポーツの観念が、人類の身体文化にとって「唯一」ではないだろう。
それのみを最上とすれば、地方のわたしたちには永遠に主体性がないだろう。
いくら努力しても業績判断は、中枢による制度やルール変更のたびに翻弄されるに違いない。
小さな私個人ならばそれでもいい。しかしこのふるさとには、個人を超えた身体文化の遺産があり、わたしたちの血脈と心性、土地固有の歴史に裏打ちされている。
無数の先人達が生涯をかけて耕してきた遺産を、当代だけの価値観で、見知らぬ他者へゆだね、翻弄されていいものか。
無能な伝承者である私だが、いまや誰も見向きもしなくなった世界だからこそ、それらを守る義務と責任をますます強く感じている。
そのことは、過去だけではなく、現在と未来のふるさとの有り様にも大きく関わる。
すなわち、ふるさとの個性が消え、全国どこでも同じ姿へと平準化されてしまったとき、
この地も私たちも、他者によるモノサシで順位付けされ、交換可能な歯車となってしまう。
そうならば、どこでも同じなのだから、もうこの地に住む理由はなくなる。
よりいい選択肢を求め、人はどんどん出ていくだろう。
武道・武術も同じだ。
前近代、ついこの間まで、日本列島各地にはそれぞれ固有の武や身体伝承があった。
それらは、「全国大会出場」という近代官僚制スポーツとは、別の価値、文化的機能があったはずだ。
講習会を受けたり、特別なルールや用具、施設を準備しなくとも、生まれたときからすぐそばにあり、日々の生活そのものに寄り添って、心身を豊かにしてくれていたはずだ。
課題は他者に与えられるものではなく、自ら発見していくものだったのだ。
すなわち武道・武術が、ひとりひとりが目前の過酷な現実と向き合うために、それぞれが生きている現場で熟成されてきた知恵と技法ならば。
わたしたちの現実や生き様が一様ではなく、哲学や文化で全国競技大会が成立しないように、武にも多様な価値と展開があってしかるべきだ。
足元には目もくれずに「全国大会出場」目指して遠くを向き続けるふるさとがある一方、
すでにそれを達成して久しい首都圏の方が、全く異質な技芸に感心を抱いてくれる篤志が多いとは、なんとも皮肉なことだ。
(津軽地方の「こぎん刺し」やボドという衣服もそうだった。
明治期の鉄道敷設とともに、津軽の人々は、生活のなかで代々根ざしていた手作りの「こぎん」やボドを、「貧しさの象徴」として捨て、急いで東京発の西洋服へ着替えていった。
近年、その失われた「こぎん」やボドが、首都圏のみならず、パリやニューヨークなどの海外のファッション先端地で、再評価されている。
機械による大量生産の現代衣服とは真逆の存在であると。)
以上、今回ご紹介する弘前藩の林崎新夢想流居合も「唯一の正解」とは決して言えない。
同系統、同名の流派は、東北諸藩でも伝承されていたからだ。
開祖は同じ林崎甚助でも、その後はそれぞれの土地と歴史で熟成された。
よって当流も、津軽という北方世界の風土で熟成された身体技法、身体観の一形態である。
しかも近代以降、我が家や津軽各師範家で衰退したものを再興しているのが現状だ。
今回は、洗練されていないこの素朴な野生の古種を、共同研究素材とするなかから、
流派の違いを超えて「居合」という日本列島独特の武種が、どのような特性と必然性を帯びていたのか、
より普遍的な理を求めて、共に再考する機会が生まれればと願っている。
開祖が見出したというその稽古法は、公開演武のような派手さが全くない。
かなり地味だが、とてつもなく難しい課題だ。
己にとって、これ以上ないほど不利な状況下で、いかに自在を得るのか、というものだ。
近現代社会で常識となった、欧米発の身体観だけでは分析不能な、前近代の武士達、東アジアの身体観が埋め込まれているのではないか。
そこで探求される心身こそ、身動きできないような混乱と混迷の当代を、いかに生きていくかという難題へのヒントにも通じるのではないかと夢想している。
流派や武種は不問です。全く初めての方も歓迎いたします。
様々な方がおいでになるだろうが、互いに異なることに対するリスペクトとともに、この研究稽古会へおいでいただければ幸いです。