わたしは、なんのために家伝剣術をやっているのか。
強くなるためか。
いや、そればかりが目的ではない。刀がない現代社会に応じた即物的な強さを求めるならば、旧時代の剣技より、もっとふさわしい武種があるだろう。
名誉のためか。
いや、先祖達が旧藩剣術指南番だった頃ならばともかく、現代のふるさとでは、古流は異端視されることはあっても、評価はない。ましてや昇段や試合が目的にはならない。
おカネのためか。
全く逆だ。毎度ボランティア。ギリギリの自転車操業か赤字、もうかることは一度も無い。
そして代々我が家はこの継承のために、どれほど投資し、無回収のまま散財してきたことか。(祖父も父も母も妹もそれを当たり前とするが、同様の苦しみを修武堂のお仲間達にも強いているのが心苦しいのである…)
では、趣味や健康のためか。
いや、それならば、こんな旧時代の格好で、危なくて不衛生な運動よりも、もっと流行りの楽しくカッコいいものはたくさんある。
以上、おそらく私の家伝剣術伝承は、現代主流の価値観からすれば、どこにもリストアップされない、全くのナンセンスな行為と映るだろうか。
しかしだ。この世界は、マスメディアがこぞって「常識」「定番」「注目」「新着」などと、しきりに評価し、リストアップするものばかりで構成されているわけではない。それは世界の一部にしかすぎない。
むしろ私は、そのようなメジャーな分野では全く救われず、違和感や空虚感、飢餓感を覚えるばかりだった。
反面、世の中にリストアップされていないもの、見落とされてきたものごとによって、ここに生きているリアルな深い実感、生命を得ている。それが実は家のなかに残されていたことに気づき、感謝してもしきれない。
私は、この旧世紀の実技稽古から、一族の紐帯、仲間との連帯、ふるさとの大地と歴史とのつながり、どんな他者評価にも邪魔されない気ままな自由さ…、
目の前の世界の深さを体感し、己自身を更新しながら、日々のものごとへ対峙していく心身のチカラと座標、糧を得ている。この道は、かつて先祖たちが歩いていった背中にもつながっているはずだ。それでいいのだ。