六尺三寸の長い棒術の次は、短い小太刀の稽古を楽しんでいる。
先日「(家伝剣術は)強くなるためだけではない。刀がない現代社会に応じた即物的な強さを求めるならば、旧時代の剣技より、もっとふさわしい武種がある。」
としたが、それでも、かかる火の粉は払わねばならないこともあろう。
先日は電車のホームで、あからさまに複数で横入りしてきた男がいて、その後も目に余る失礼さだったので、丁重に(?)撃退せざるをえなかった。(反省…)
そういえば、東京の幼馴なじみは、帰宅中、見知らぬ複数の暴漢の被害を受けたこともある。
まぬけ顔をして歩いている私だからこそ、今後、同様のことがないとはいえないよなあ。
近くに現代護身術を教えているところなどないから、私自身の手持ちの課題である家伝剣術小太刀から工夫するしかない。
短い得物で長い剣に対抗する、剣と体術の中間的存在であるこの技法ならば、
例え刀がない現代社会でも、身の回りの短い棒状の得物やカサなどを代用する等から、現代に応じた護身を考える充分な教材となるのではないか。
一方、一般的な竹刀剣道では、長い剣相手に小太刀で戦うことなど無謀だと考えるのか、日本剣道形小太刀の所作を繰り返すだけで、それで実際に試合を試みる人、戦うことを考えて稽古される方はほとんどいらっしゃらないようだ。
確かに、実際にそれで地稽古(自由打ち合い稽古)をやってみると、至難の行為だが、それを全く工夫しないというのは、いつも「実戦」式を唱える武種にしては不思議なことである。
なぜ先人達は小太刀の技を残したのか、気にならないのだろうか。
実際の危機では、相手も同じ条件でくるとは限らない。状況を選べないこともあったからではないか。
そして、小太刀の難しい稽古だからこそ、得られる「長短一味」の術理があったからではないか。
過去の存在かと思われている古流だが、実際のことを考えて稽古するのは、この技が生まれた本来のなまなましいエネルギッシュな源泉に触れるようで、胸が高鳴る楽しい探究稽古となるものだ。