自己をならう

5歳から家伝の卜傳流剣術を、6歳から剣道の稽古を始めたので、武の稽古も40年を過ぎた。

まっすぐな街道ではなく、非才のうえに、回り道や五里霧中も多かったので、長くやっていても上達していない私だ。

ただ、幼い頃から大きな疑問があった。

例えば無数にやってきた、剣道の地稽古や試合で、たとえ勝っても、ひとときの喜びでしかなく、その高揚感はすぐに消えていくまぼろしのような不安、虚無を感じた。

試合で勝っている頃は楽しいが、勝てなくなって面白さがなくなったので剣道をやめた、という人もいた。

若いうちは目先の勝利で一喜一憂していい時代がある。

だがそれだけで生涯にわたって稽古していくには足りないものだ。

代々、剣術を継ぐ家の者として、生涯、うたかたのようなジャンケンを繰り返しながら生きていくことに意味があるのか、それが伝承文化たりうるのだろうか、と思ってきた。

仏道に「修羅道」という世界があると説くが、そのように永遠に争うことに意味があるのか。

なぜ勝つのか、なぜ負けるのか、

まぼろしのようなあまたの現象の底を静かに流れている、なにか普遍の仕組みを体得したい。

目前の幻に一喜一憂して振り回されることなく、安心して生きていきたい。

おそらくその願いは、法律で守られた社会のなかで、競技として、稽古法のひとつとしてやっている現代の私の気楽さより、

逃げられない生死の狭間に投げ込まれ、日々を生きていた戦国末期の先人達こそ、切実に希求したことだろう。

その欣求からこそ、それぞれの流儀が立てられていった。

家伝剣術もそのひとつだが、たったひとつの正解ではなく、そのなかのひとつの解法にすぎない。

それでも私にはこの解法が与えられた。

だからこの小さな解法を通じて、幼い頃からの不安、内側の虚無の闇をみつめていきたい。

いや、闇ではなく、もしかしたら、私自身のささやかな命の源泉に向き合うことになるのではないか。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自己をわするるといふは、万法に証せられるなり。

万法に証せられるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落(とうらく)せしむるなり」(道元正法眼蔵」)