■
林崎新夢想流居合「向身」二本目の「押抜」
まずは、なぜこの技名が「おしぬき」なのかわからない。
名前はその技の要素を意味しているだろうから、理解できていない私は「まだまだだ」ということだ。
現在の稽古段階を報告する。
一本目と同様、打太刀は正座して九寸五分の短刀を帯びている。
仕太刀は歩み寄って、打太刀の眼前に扶据(ふきょ)に座り、柄でその左二の腕を押さえる。
その際、今回は、右膝を打太刀の両膝の間に入れる。
よって一本目とは位取りが少々異なる。
またしても打太刀が短刀を抜こうとする。仕太刀はその未発の気をとらえて、右手を前に出さずに左半身を引き、相手の両眼の高さへ抜刀して封じる。
前近代の武は、よく顔面、とくに目や鼻を狙うようだ。
なぜならばその部位は、いくら強者でも鍛えようがない人間の急所であり、少し打たれただけで、誰しも錯乱してしまうからだ。
しかも、場合によっては治らない部位だから、稽古ではかなり慎重に行いたい。
私も打太刀となって、初心の方に一本目の「非打」(ひうち、鞘の鯉口で相手の右目を突く所作)を教えていた際、失敗したことがある。
仕太刀となって遠慮無くどうぞ、とやっていたら、その方が力加減を知らずに、思い切り鯉口で私の眼球を直打しまったのだ。
その瞬間、私は右目だけ見えなくなり、もうこの目はダメかなと覚悟した。
先人達が「非打は危険だから、稽古では右目の代わりに右耳を突け」と残した知恵が身にしみた。
まあ、私も頑丈にできているようで、しばらくして治った。
危険な武具を扱っていながら「稽古だから」と我が身を相手にゆだねきっている己自身の不覚だった。猛省。
危険性を知らない稽古をしていれば、実際のときに不覚をとるだろう。
だからといって、常に危ない稽古をしていればいいものではない。
生身の人間は壊れやすいものだ。稽古で治らない致命傷を負ってしまえば、そこで上達が止まってしまい、実際のときには、さらに不利になるだろう。
よって、危険を充分に感じながらも、互いの感覚や心身を整え、養っていくような稽古を目指したい。
さて、打太刀の両眼に抜き付けた。この抜き付けの高さは、次の動きへとつながる高さだ。
その後、仕太刀は、左膝を前に出して立ち上がりながら、刀を右手上段にとる。
しかしこのように、長く重い三尺三寸の大刀を、片手で上方へ持ち上げるのは大変だ。
その力みは肩を居着かせ、我が自由を失わせる。そこを相手は見逃さずに斬ってくるに違いない。
ならばどうするか。
無刀氏こと、故加川康之氏の工夫を記す。
「あたかも右手で暖簾を掻き上げて潜り抜けていくようにする」
こうすると世界が一変する。
重い三尺三寸刀は空中に静止したまま、我が身体だけが変化するので、刀も重さを感じない。
よって肩や身体への負担が軽く、途中で襲われても動ける余裕が残る。
このような使い方はほかにも、頭上で刀を水平に構える「天横一文字の構え」の所作にも通じよう。
重い刀を腕力で振り回すのには限界があり、身体は居着き遅れをとる。さらに力むほど腱鞘炎となる。
刀を家来としてねじ伏せ、従わせようとするのではなく、むしろその重さと特性を受け入れ、刀の動きを邪魔することなく、人間の方が協力するのはいかがだろう。
慮外の軽やかな変化に恵まれよう。
そのうち、刀と我が身の境目が消えて、一体となっていくのではないだろうか。
よく剣の世界では「毎日、箸を使うように稽古せよ」というが、そのような意味もあったのではないか。
さて、打太刀にとって、右片手上段で立っている仕太刀の左すねが一番手前に見えて斬りやすい。
だから短刀を抜き、その左膝を右から斬り払おうとする。
その瞬間、仕太刀は、右膝を地面に突きながら、上段から刀斬り下ろし、我が左すねを斬り払ってくる打太刀の短刀、その右前腕を封じる。
この所作は、脚部への攻撃に応じるいい稽古になる。
私もそうだが、竹刀剣道経験者は、定められた打突部位が上半身のみであるためか、上半身は意識が濃いが、下半身の防御力が薄くなる場合が多い。
そのため、槍や薙刀などの異種武器、または打突部位制限無しの地稽古になると、うっかり脚部をやられてしまうことがある。
そのような技は、競技選手ではなく、往時の武士達ならば、充分に覚悟していたことだろう。
私は、槍や薙刀との実験的な稽古のなかで、剣道具の垂れが、金的だけではなく、大腿部まで防御しているありがたさについて実感できた。
他にも、剣道具の面布団が、両肩の弱い鎖骨まで防御していることのありがたさも知った。
あれは首筋を守り、面の重さを支える脚になっているだけではなく、もしかしたら往時の竹刀稽古は、両肩への袈裟斬りまで想定してカバーしていたのではないか。
ともかく「押抜」の稽古は、脚部への攻防についていい勉強となる。
しかし突きつけられる課題は過酷だ。
なぜなら、打太刀は、抜刀して数十センチの動きで済むから簡単だ。
一方、仕太刀は、立った片手上段から、座って地面近くまで斬りおろすのだから、刀の移動距離は最大限、我が身の背丈以上となる。圧倒的に不利だ、遅れてしまいそうだ。
それをいかに逆転し、短刀を封じられるかが稽古の課題となる。
仕太刀が、しっかりと地面を踏みしめていたり、脚力でやろうとすれば、短刀に間に合わない。
よって仕太刀は、地面にふわりと立ち、打太刀の気を感じるやいなや、刀を持つ右半身は落下するが、それを邪魔しないよう左半身は同時に浮き上がるような状態がいいようだ。
うまくいくと、短刀で斬り払っていった仕太刀の右前腕が、急に上から落ちてくる遮断機、しかも仕太刀の体重が乗った刀によって、完全につぶされ、封じられるような現象となろう。
(よって安全性のために、打太刀は、小手などの防具をつけた方がいいかもしれない)
あとは一本目と同じく、天横一文字の構えから天縦一文字の構えへの変化、突きをかわしての袈裟斬り(二躬)となって納刀。「押抜」が完了する。
生きて応変する居合や剣術を求めるならば、外形の美ではない、身体内部の運用システムを学ぶことこそ重要だ。
その機能が生きてこそ、はじめて外見の美が自ずと派生してくるのではないか。
しかしその機能美を見とれるのは、やはり、内部運用システムを自ら稽古し、会得できた術者だけであり、部外者にはなんのことか、その巧拙さえ全くわからないのではないか。
さて、次回は三本目だ。
(追記)
ところで本日、残念ながら、我が国は大変な転機を迎えてしまった。
あまりの横暴さに不安と怒りが抑えられない。身を呈して行動されている方々には敬服してやまない。
しかし無力な私にも、歴史への責任がある。
日々の暮らしに精一杯であっても、うっかり大きなものを見逃してしまえば、本当に大変なことになる。
いまは稽古を通じて己の心身を整えるなかから、なすべきことはなにか、しっかりと見つめていきたい。