林崎新夢想流居合「向身」三本目「防身(ふせぎみ)」

この技名は形のなかで使う、当流独特の構え「防身」に由来していると思われる。

まず、いつものように打太刀は正座して、九寸五分の短刀を帯びている。

仕太刀は三尺三寸の大刀を帯びている。打太刀に向かって歩み寄り、左膝を相手の両膝の間に入れながら扶据し、刀の柄を打太刀の左二の腕につける。

この一連の動作も、単なる形式の礼法でははく、武技にしたいものだ。

すなわち、気配なく、いつでも応変可能なまま、居着かずにスーッと歩み寄って、スッと水流のように座れないかなと工夫している。

仕太刀が発剣する機をとらえて、打太刀は、相手の乳の高さに抜き付ける。

この抜き付けの高さは全身の連携で決まる。

その刀の高さを変えずに、刀と右足を一歩引き、左足前、鞘は帯と平行、そのうえに刀を乗せ、左脇に刀を構える。刃は左向、切っ先は後方向きだ。これが、敵の鋭鋒を防ぐための防身の構えである。

当初は、まことに不思議で不自由な構えではないかと、疑義が生じていた。

ところが、それは目の前の敵ひとりだけを想定した私の囚われだった。

競技ではなく武術ならば、敵はいろんな方向から複数襲ってきてもおかしくない。「防身」の構えもおそらくその想定にある。

観念だけではなく、いろいろ自分なりに実際に動いてみればわかる。

この構えは、我が身体前面と左側を刃部で覆っているため、刀を前や右へ大きく払うこと、左や後方の敵に応じることが可能となる。

さらに、振りかぶって上段からの巻打ちへ変化すること、左下から右上に袈裟に斬り上げることなど、いろんな変化を含んでいるとみた。

しかしこの稽古で打太刀は、己の目の前に突き出されている仕太刀の左膝に斬りつけてくる。

なぜ打太刀はそこを狙うのか。理由はいくつか考えられよう。

まずひとつは、仕太刀側からみた戦略だ。

戦いに打突部位の制限などない。全身あらゆるところが攻撃対象となる。だから対応が困難である。

よって仕太刀は、全身を防御しつつ、わざとある一部だけ開けておくのだ。

すると敵は思わずそこへ誘導され、様々にあったはずの選択肢を、自らたったひとつへ絞ってしまう。仕太刀にとっては、その動きを読みやすくなり、応じやすくなる。古い武術の常套手段である。

もうひとつは打太刀からみた指導方法だ。

稽古は常に、師である打太刀が弟子の仕太刀の技を受けながら、俯瞰的な視点から導いていく構成になっている。

日本の武術では、定型的な指導方法であるが、先輩が徹底的に後輩をつぶして力を誇示していく現代の指導方法からすれば、驚かれる方もいるようだ。

よってこの居合でも。打太刀は、経験上、仕太刀がもっとも居着いて弱点となるところ、または全体の動きの要になるところを気づかせるために、あえてそこを指摘するのではないか。

例えば、幕末から明治かけて、北辰堂で林崎新夢想流居合を指導していた小田桐孫平衛師範(家伝剣術の高弟でもあられた)は、座って稽古をつけるとき、短刀の代わりに扇子も使っていたという。

すなわちポイントを指示できれば、得物はなんでもいいのかもしれない。

さて形の流れに戻ろう。

打太刀が、防身に構えている仕太刀の左膝に斬りつけてきた。

これに対して仕太刀は、左上から打太刀の右拳へと、刀を斬りおろして留めるのである。

このとき、予備動作を消して反応を速くすること、かつ斬りに重さを載せて、まるで上から遮断機が落ちるように、確実に相手の短刀を封じたい。

そのために防身の構えでは、刀をただ鞘の上に載せて肩の力みを消している。あとはそのまま己の左膝下へ刀を落とせばいい。

そのとき、両足を踏みしめていては、我が身体が刀の動きを邪魔してしまい、遅くなって間に合わない。

また、力まかせに沈み込めば、己の膝頭を床に強打して痛めよう。だからといって膝にサポーターなどつけるようなことは、往時の武士達はやらなかったろう。

よって、低い腰でも、両脚は足下の薄氷を割らないようにフワリと立ち、落下する刀の動きに寸部も遅れずに全身が変形してついていくようにする。身体に浮きと沈みを両方かける感じだ。

すると、自ずと斬りは速くなり、かつ我が体重すべてが載るので、あたかも打太刀の片手短刀のうえに仕太刀が全身でのっかるような現象となる。確実に留めることができよう。

あとはいつものように仕太刀は頭上で刀を、天横一文字から天縦一文字へと変化させ、その喉元を打太刀が短刀で突いてくる。

なお、この打太刀の突きは、毎回、刃部を左へ向けながら突いてくる。その理由について。

まず、短刀でも大刀でも刀の構造上、突くときは剣道式に真っ直ぐ伸ばすだけでは剣先がぶれるものだ。だから、刃を横に寝せながら突いた方が、刀が迷わず、あたかも矢のように、前から引かれるようにスルリと直進していくものだ。

また、刃を寝せる所作によって、打太刀の身体内部も変化する。我が肩が脱力して落ち、腕と体幹がつながり、あたかも身体の中央部から短刀が生えているような感覚となり、突きに重さがのる。

かつ仕太刀は、打太刀からみた左方へ身をさばこうとしている。よって打太刀は突きながら、刃部を左へ向けておくと、その動きを追尾可能となるためだ。

(わたしが小学生のころ、祖父や小舘俊雄伝小野派一刀流剣術のS先生は、剣道の稽古中でも、刃を旋回させながら突けば、傷口が大きく開くものだと、物騒なことも教えてくれたものだったなあ)

このように工夫された打太刀の突きであるが、それでも仕太刀は「二躬(にのみ)」の袈裟斬りで、それを全身ごと封じるような工夫をしなくてはならない。

なお今回の二躬は、一本目が右足前だったのに対して、左足前のまま、斬りによって右半身へと変化しなくてはならない。

ともすれば、己の身体がねじることで自ら居着いてしまう。そこをやられてしまうだろう。

よって、体幹をねじることなく、上半身と下半身の向きを互い違いに変化させることについては、さらに工夫が必要となる。

そして納刀。

このように林崎新夢想流居合の稽古は極端な近間が多い。それが教えてくれるのは決して曲芸自慢ではない。

例えば、剣道の地稽古ならば、竹刀と竹刀が交差する間合いになれば、すぐさま互いに暗黙の了解で定められた「鍔競り合い」方式をとって攻防を制限し、なるべく早めに遠ざかって、一足一刀の間合いから仕切り直そうとする。ボクシングのクリンチにも似ている。

だが、林崎の居合は、身を接するような近間においても、攻防が終わらない。

逆に詰まったままでもいかに自由自在を得ていくか、というパズルを解くような難題が突き付けられる。

間合いで思い出すのは学生のころ、剣道昇段審査に向けて、道場で地稽古をしていたときのことだ。

順番を待って並んでいると、日本各地で稽古されてきたという、少し年上の方がつぶやいた。

「こちら(津軽)の方々の稽古を拝見していると、近い間合いで打ち合いをされる剣風だが、以前稽古していた関西では、遠間からスパーンと打っていく剣風でしたよ」と誇らしげに語られた。

我々は田舎だから違うのかなと、恥ずかしく思ったことがある。

いま思えばそれは違う。一面的な見方にすぎないと反論したい。

「近間だ」「遠間だ」と、命名するのは、稽古の便法にすぎない。

現実世界の間合には、固定的な姿などなく、無数の近間と遠間の群が連続し、それらにハッキリとした境目はなく、常に変化し流動する。

そのどの場面においても、しかるべき互いの関係と攻防が発生する。

だから、特定の間合いの形式に固執して「美学」にしてしまえば、人工空間内の競技としては成立するが、現実をとらえた武道、武術とはならない。

もし武道、武術であるならば、いやその理合をこの世を生きていくことにもつなげていくならば、

むしろ「遠間でなくてはいけない」というような固定した考えを持つほど、実際の変化を見落とし、現実の前に敗れるのではないか。

我々の世界は、我々が考えるよりも、もっと豊かで複雑なのだ。

今日、帰りの通勤電車で己の無力さを痛感するとともに、新たな決意も生まれていた。

止めようもない大きな力によって、社会がますます大変になりそうないまこそ、ひとりひとりが投げ出すことなく、少しずつ己自身の質を高めておくことが、大きな災厄へ向き合うための確かな一歩になるのではないか。

そのことについて、お金も境遇も関係ない。それぞれが生きている固有の場から、それぞれのやり方で。すぐに始められるはずだ。このちっぽけな私だって。

次回は四本目へ。